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1.忘れない

 嫌いなものやキモさしか感じないものや何がいいのか分からないもの。あるいは、それにハマっている人の様子にそれらしか感じられないもの。また、嫌いだのキモいだの言ってるくせにハマってる人がいて、その様子に嫌悪感やキモさを感じて耐えられないもの。それらに関心がある。

 その嫌悪感やキモさにコンプレックス(劣等感という意味ではなく)が内在してる。だから、その対象を(要するにコンプレックス)を延々と処理して、処理し終わりたい。無理してそれらに関心を持ったり、ハマってみたりして、その人がどういうつもりなのか肉迫しないと耐えられない。自分なりの腹落ちまで、どうでもいいと思えない。また、自分自身嫌いだのキモいだの言ってるくせにハマり続けているものには、飽きたくなる。たとえば、ずっとそう言ってるくせにずっと聴いてるバンドのライブに行って、飽きに行きたい。あるいは、飽きるために、聴きまくりたい。

 嫌いなものをどんどんやって、生理的嫌悪感を処理したい。また、嫌いだけど惹かれてるものに飽きたい。それに、悪口を思い浮かび終わりたい。いろんなことにポジティブに挑戦したいというより、ネチネチと肉迫することで、嫌悪感を抱え終えたい。

 

2.捻出してる

 よく、「暇だから悩むんだよ」「体力が余ってるから悩むんだよ」とか言う。けど、病むような人たちは忙しいなか悩むし、心身の体力がなくなるまで悩んで、心身の体力がなくなってからでもえんえんと悩むから、病む。そして、生活ができなくなる。あるいは、無理して生活してる。それで少し体力が及第点くらいまで来たら、また延々と悩み始める。そんな運用で元気な時があるわけがない。0とマイナスを往復して生きてるんだから。

 そして、そんな風な生活ができかねてきたら、「もう考えるのをやめよ〜」と急にケロッとする。あるいは、躁的な別人格をこしらえてエキセントリックな冗談や早口な知識で自分を守り続ける。よりよい自分であるために強迫的に悩んでいたはずが、どんどん不誠実で辻褄が合わなくて不気味な生き物になっていく。誰これ。

 

3.人のための中庸

 よりよい自分になるためにそんなに思いつめてるくせに(あるいは、他者から好かれていない不安/見捨てられる不安があるという利己的な衝動でえんえん悩んで)、躁的防衛したり頑なに憂うつになったりする。その結果、放ったらかしの自己肯定感の代わりに、多くの人から承認されたいという欲が肥大して、歪んだ自己愛ばかりがその人を構成していく。自分が相手からカテゴリー化して好かれていると思い込んで、自分をカテゴリー化していく。

 えんえん悩む人は、その悩みのクリアの仕方(躁状態の別人になるか「や〜めた」という投げ出しでサバイブする)によって、他者と自分にすごく不誠実になる。本人は困っているから仕方がないのだけれど、ときに不誠実で人を混乱させるとは思う。誠実に内省的なようで人一倍利己的。

 生理的にすごく気色悪くていても経ってもいられないもの(嫌いなものやモヤモヤ)をカテゴリー化して済ませず、迅速に考え終わりたい。でも、結局誰かに対して不誠実になるような仕方でえんえん落ち込んでるだけという生き方は唾棄したい。

 

 

急いでからかって

 アパレル企業では、色んな社員が色んなお客(や若い社員たち)の悪口を言うことが習慣化していた。社訓は、「人間性」だった。体型の大きなお客様の場合は、「見てハンプティダンプティが来てる、横通らないようにしよ」「つのだひろみたいだったね笑」(大きなサイズ日本一を目標にしてる会社)。外国人と思った方の場合は(必ず「外人」と呼び、)「本当は日本語話せるくせに」「何人なんだろ」「黒人のお客様来るから対応しておいて」。いつも長時間過ごされる方の場合、「あのお客さん友達いない寂しい人だから気が向いたら対応してあげてね」。ある日、セットアップが好きな方が来店されて、お洋服の話で盛り上がりつつ、接客をしていた。接客後、遠くにいた上司が、「こだわりがあるのはいいけど、ぶつくさ言うくせにあの人臭くなかった?」「髪の毛が湿っててお風呂入ってなさそうだよ」などと笑いを誘ってきた。入り口のディスプレイに、「BODY POSITIVE!」という言葉が映ってる。

 数日後には、「さっきのあの◯◯って客、ホモらしいよ」「うーわ、やっぱり。2丁目とか言ってるクチですか?」「おう、気をつけろよ。買いに来てくれるのはいいけどさっさと帰ればいいのに」「ですねえ。金は持ってるみたいですけどええ」。事務所で大声で話す中高年男性社員たち。

 よくあるクリシェのように、”特に意図はなく、別に本当のことを言っただけ”なのだろうか。なら彼らは、いちいち「雲白い!」「眉毛生えてる!」「ペンが棒状だ!」「眼鏡を掛けるとよく見える!」「机って物が置ける!」などといちいち言いながら暮らすの?

 本当のことだから言っているわけではない。そこに、特定の他者性への嫌悪感がある。すなわち差別心だ。ヘイトという言葉は、大嫌いという意味ではない。悪意に満ちた差別心と強かな排外。たとえ、何らかの他者性が「嫌悪感を抱き、ジャッジし、笑い、避け」たくなるかたちで現れたとしても、その刺激にそんな反応をしてしまう間にあるのは、差別心という変数だ。意図がある。

周りの人が見えてない

 引っ越してすぐドアを開ければ、知らない母子(おそらく)が勧誘をしていた。「ちょっと聞こえなかったのでもう1回言ってもらっていいですか?」と言っても、話が続く。「あ、ちょっと聞こえなかったんですけどなんて言ったのかもう1回いいですか、すみません寝起きで聞こえづらくて」とまた言う。それでも話が続く。「聞こえなかったから、ごめんなさいもう1回いいですか?」と再度訊く。あと数回聞き返しても耳に入らず、娘が変わってくれた。いい人そうな人たちだった。しばらく話す。「手術はできないんでしょうか?」「はい。代わりにより良い医療をします」「いわゆる代替医療ですか?」「そうです」。”代替医療”。

 スピリチュアルという言葉は、2007年以後江原啓之がさかんに用いて広く世間に認知されており、前向きに明るく語ろうという気分をカタカナに込めながら、「霊に関わる」という意味で使われる(堀江、2011)。このようなスピリチュアルなものは、宗教への忌避感を経由して、科学やコミュニティ然とした姿でブームになっているように思う。「あの宗教とは違う」「そもそも宗教とは違う」というふうに。そこでは、自己啓発のように、ラディカルなようでいて今の価値観を変えようというスタンスはみられない。例えば、体内記憶も胎教も、執筆者は圧倒的に男性が多く、リラックスによる胎児の成育や、知能を左右する働きかけといった、「女性としての役割」を積極的に担うことを説かれる(橋迫、2021)。

 大学院で、マインドフルネスの講義があった。心理学とスピリチュアルのギリギリの。毎回3種類くらいのマインドフルネス瞑想を行う。ZOOM画面で数十人が顔出しし、知らない先生の指示で目を閉じ、呼吸法をする。その感想を毎回提出する。

 講義の最後の方に、また瞑想。目を閉じ、「ンー」と言い続ける(マイクは先生以外オフ)。先生からの合図で、やめる。しばらくそれを繰り返す。でもやけにすごく長く感じた。画面の向こうの先生らの気配さえ感じなくなった。それでも続ける。静けさが続く。いっそう誰の存在も感じなくなってきた。15分経った。

 パソコンの充電切れだった。感想も提出できなかった。

 

 

【引用・参考】

橋迫瑞穂(2021). 結婚・妊娠をめぐるスピリチュアリティ 集英社新書

堀江宗正(2011). 若者の気分ースピリチュアリティのゆくえー 岩波書店

 

失地回復

1.行き先イケメン ハイビスカス

 中学が荒れていた。耐えかねた。早退しがちになった。横になっていると母に怒られた。机に伏せても怒られた。勘弁してよ、と頻々に嘆かれた。小学生のころに私の指を壁際からはがして引きずって、あるいはトイレのドアをガチャガチャと叩いて見つけ出して私を学校に連れていっていた彼女にとって、「あのときと全く変わってない!」という怒りはまっとうだった。

 あるとき、「あなたがこんなんだから私の生理がおかしくなったじゃない」とひどく怒られた。「婦人科で足を広げて本当に恥ずかしかった」「ストレスでだって、ストレス!もう!」。こまった。幼いころ何気なく玄関の棚をふいに開けようとした。すると聞いたことのない発声でとても叫びながら、ものすごい力で彼女はそれを閉めた(生理用品をそこにしまっていた)。そんなこの人が、こうキレた。すごくよくない。いちストレッサーの責任。彼女は「お母さんの言うことがなんでも合ってるんだから」「ほらお母さんが合ってるでしょう?」と四半世紀やめられない。この人のために”勘弁”をする業。釈迦のてのひらにしては小さい。子離れさせるという親離れを、し損ねた。

 

 2.草食系とかマジ勘弁

 なんでそんなすごいのかわからないものをなんだか信じる。ときには、みんなでそうする。それはとても危ないことだと思った。

 威張りとからかい以外で話せない「上司」になってしまった人は、自分が客体という発想がなく、ひと様をジャッジメントする主体としか思っていない。自分が許してもらうかどうかのシチュエーションでも、なぜか自分が許してあげる側みたいになって会話にならない。「何も根に持ってないから安心してよ!」と急に。徹底的に自己省察しなければのしてくれなさ。たとえ寿命が無限でも原理的にずっと変わらない。自分が良くないことをして相手がまだ怒っている、人様から嫌われているという発想がない。からかいの空間では、どれだけ真剣に意思を伝えても、スポンジに吸い込まれるようにして私の意思がどこかへ消えてしまって、語っても語っても相手に伝わらない(三木、2023)。非対称性をラッキーだと捉えて是正しない。

 社会人なので相手を気遣って関わりましょうよお互いに。「俺言っちゃ悪いけど気を使ってるんだよ」とか言うけど、当たり前ですよ。自分が「上」だからとかじゃなくて、大人なんだからお互いに気は使うもの。上にならないように使うもの。さんざんからかっていた、私以上に若い女性社員が異動したとき、客前ですごい大声で他の従業員に「いや~イジりがいのあるやつがいなくなっちゃってさみしいっすね~」とか言っている場合じゃない。彼女をビンタしたいだの言う前に、適当な若者をからかったり威張ったりするという方法でしか「仲良く」できない話し方やめればいいのに。

 先週、父の誕生日だった。還暦。彼は数年前、助手席の私に「お前は頭がおかしい」「殴るぞ」「降りろ」と髪をつかんで突然ドアを開けた。かんしゃくが収まって家まで自動車で帰れた。家に帰ると「お前帰れ」と怒鳴るので、殺される危険があると思って謝ってみた。すると彼は、わんわん泣いた。「俺には味方がいないんだ」「家族が誰も優しくしてくれない」「お父さんのお父さんは60歳で死んだんだぞ、もう怖いの」といったことをわんわん叫び続けた。

 泣くか暴れるか以外で話せるようになってから死ねれば嬉しいね。からかうか威張るか以外で気を使えるようになってから死ねればいいね。私もがんばりたいな。

 

【引用・参考】

三木那由他(2023). 言葉の風景、哲学のレンズ 講談社

 

 

 

いじめをやめる勇気を出してみよう

 仕事中に新入社員に何度も「部屋汚いでしょ?」「お前変わってんね」「クリップってはさめる?」「掃除機って使ったことある?」「ガリガリじゃん?吐くまで食べたら?」、何度否定して「そうやってどもるけどモテるためわざとなんでしょ?」と言うことも、「おいお前!」と呼び止めて「ほんとガリガリだな、こんくらいしかしかないじゃん」、「男なんだからいっぱい食べてきなよ!ダメよ!」などと延々と複数人で言うことも君たちの給料に含まれ、言われることも私たちの給料に含まれるのか。ボディポジティブの大事さを喧伝してたから、それに感銘を受け、体へのからかいをなくしたい。そう話して受かって、働き始めた。

 ジェンダーが後天的に構築され、可変的なものであるならば、それをするしないという選択ができるはず(三橋、2023)。自分の行動を変えてみたいな、これってよくないのかな、と考えてみよう。

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 これを伝えれば、悪人Aは20歳下の女性社員を指して「彼女はイジられたがりだからねえ」「お笑い芸人だってイジられて喜ぶでしょ」と言っていた。とにかくまず、彼女はお笑い芸人ではない。一社員だ。そして、本人が喜んでいるかはわからないし、イジられたがりかもわからない。仮にそうだとしても、圧倒的に上の人間が集団でするものでは明かにないし、その「喜び」とやらは内在化・適応かもしれない。本人がどう思っていようが行動としておかしく、本人が喜んでいたらまずヒアリングして、上司の義務としてさとそう。そして当該の(セクハラを正当化するために創造された架空の)お笑い芸人だってイジられたがりかはわからない。仮にそうだとしてもそれは内在化かもしれない。自己決定という発想は、本人の意志だということにして他者の責任ではなくすための符牒じゃない。

 集団の中年男性で数十歳下の人間をいじめるをやめようかなと、せめて一生で数分は思ってみよう。私は少しでも思っていこう。

 

【引用・参考】

三橋順子(2023). これからの時代を生き抜くためのジェンダー&セクシュアリティ論入門 辰巳出版

 

 

言い終わりじゃなくて話し始め

「不謹慎ざます!」

バカ読め行間

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 行間が読めないバカの私はどうしても、彼の映画評を「AVに出ても魅力がないような人を選んでミスキャストだとか言ってる…」「うわキャラクターに一貫性がないことを”精神病!?”と笑いながら言ってる…」と感じて聴くのが辛くてやめてしまった。そして、私は行間が読めないバカなので、「うわ”「不謹慎ざます!」バカ読め行間”って言ってる…」と思ってこのアルバムが苦手になった。

 入った会社では社員全員がお客を「外人」と言い、朝礼では「ご夫妻だと思ったら、ご主人・奥様と呼ぶようにしましょう」と呼びかけられて復唱し、「黒人の人来たから接客頼むね〜」と突然店長から内線が来た。「在日」をめぐってこんなこともあった。

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 ある発言内容に対する「それは差別的ではないのか」という指摘に対して「私を差別主義者だというのか?」という反応になることがしばしばある(清水・ハン・飯野、2022)。しかし、意図ではなく効果・影響の話だ、とよく思う。

 それに、ふるまいと人格は別次元だ。状態的に特定のふるまいをしてしまってることと、そのベースにある人格は、つながりはするけれどイコールではない。どんな特性の人でも、状態としていろいろなふるまいをする。そして、そのことは、「だから問題視をやめよう」ということではなく、問題視への基点だなあって思う。 

 

【引用・参考】

清水晶子・ハン・トンヒョン・飯野由里子(2022). ポリティカル・コレクトネスからどこへ 有斐閣

 

抵抗はポップ

1.ふてぶてしい

 ハラスメントとかからかい、あるいは差別・偏見を感じる言動に文句を言うことは、私怨によるものじゃない。「構造的な威張り」(威張ろうとすれば威張れるからって威張るという振る舞い)とそれに伴う「構造的な逃げ」(逃げようとすれば逃げることができるからって逃げるという振る舞い)に対する抗いだ。それをしないと、「構造的威張れなさ」と構造的逃げられなさ」に陥る。要するに、「威張ろうとしても威張れないし威張れるとしても威張りたくもないという状況」、「逃げようとしても逃げられないし逃げられるとしても逃げたくないという状況」に陥る。そんなときに「上」にする訴えかけだから、社会的な批判だ。なのにハラッサーは、そのような「公怨」を私怨だと認識して、逆ねじを食わせる。「攻撃された!」「威張られた!」「怖い!」「あなたのあの言動だって!」。

 構造的なアンバランス。それぞれが同じような言動をしてても非対称だから、その言動の意味性がちがう。そしてそもそも、それぞれがしてる言動自体が違う。なのについ、「被害の状況を必要な配慮をせず細部まで当人に語らせようとする」「それほどひどい経験ではなかったとみなして被害者自身のリアリティを否定する」といった二次加害(森山、2023)を往々にして行う。安全な立場からついしてしまう、素っ頓狂な泣き顔や困り顔やほほえみ。すりかえられた話がその場で続く。威張れるぶん、わきまえなきゃいけない。その威張りの責任から逃げられるからこそ、逃げちゃいけない。そして、威張れないぶん、わきまえなくていい。あるいは、威張れないからこそ逃げていい。

 コミュニケーション不全なんかじゃなくて一方に過失がある出来事なのに、どんな出来事に対しても、「相性だね」「どっちもどっちだよ」「それぞれがそれぞれの正しさや正義をもっててお互いに自分が正しいと思ってるのさ」みたいに相対化して矮小化・単純化してしまう。あまつさえ、そんな態度のほうが大人な態度だとか社会的な態度だと物分かり顔で捉える。そんな反・非社会的な態度をしたり顔で説いて、あろうことか過失した張本人がその相手にそれを行う。素朴で問題含みの価値観を悦に入りながらドヤ顔で説教する素朴さ。そして、相手のほうを素朴だと思ってものを説いてくる素朴さ。その素朴さに気づかない素朴さ。

 死ぬまで重ねられる、威張られたり逃げられたりする物語。今まで重ねてきてしまい、今もつねにすでにしてる、威張ったり逃げたりしてしまう私の言動。素朴さを加速度的に喪失しなきゃ。

 

2.自己啓発で自己肯定

 今、役に立つこと・数字・競争への強迫観念(村上、2023)が横溢していて、数字と競争とライフハックが、「おじさんの価値観(家父長制)への隷従」へ方向づけられている。自己啓発本ブームについての本を探そうとAmazonを開けば、空の検索窓にカーソルを合わせただけで「自己啓発の教科書」がサジェストされた。副題「禁欲主義からアドラー引き寄せの法則まで」。禁欲とポップ・サイコロジーとスピリチュアルの三位一体で迫る自己変革。

 禁欲主義は、男性的とされている欲望を男性的に抑えて男性性を発揮したいという、ねじれた男性性に裏打ちされている(“「No Fap」「オナ禁」でテストステロンを増加させて男らしくなるために禁欲だ!”)。既存のヘゲモニーに基づいて抑圧して社会適応して、それを再生産する。本当にビジネスマン的。NoFap(オナ禁)は、「ポルノグラフィなどによる女性に対する客体化をやめたい」というフェミ的な目的じゃなく、①近いうちに男性性をより発揮して、②より女性を客体化するために、③男性性を男性的な方法で一旦抑えるという、ミソジニーに裏打ちされているだろう。本当に家父長的。また、(俗流)アドラー心理学における、①コンプレックスはすなわち劣等コンプレックスで、②全ての悩みはひっきょう人間関係で、③悩みは自らの目的のために自らで作り出しているという目的論は、容易に自己責任論をエスカレートさせる。本当に自己啓発的。あまつさえ引き寄せの法則に至っては、社会はおろか、心にも体にもコミットしていない。抑うつリアリズムから躁的防衛へ力づくでシフトする。そこに認知のリフレーミングはない。社会も心も志向してなくって、夢のような感覚があるだけ。スピリチュアル・マチズモ。

 これらに依拠して、おじさんに従うことを社是にしながら「お前はそんなことしないと思うけど、こういうことする人もいるから気をつけろよ」「俺は別にいいけど、こういうこと言う人もいるから気をつけろよ」というような言い方でしか叱責できないおじさんの集まる空間ができあがる。自らを匿名化しながら、世界を懸命に単純化して老いさらばえる。

 自己啓発書の書籍群において、既存の価値観を疑うようなことはなく、政治や経済、社会構造といったマクロの視点から世界を語ろうとすることは少ない(牧野、2015)。冷笑に裏打ちされた自己啓発をインプット/アウトプットして生活することは、要するに暴力的な社会構造の再生産だ。あげく、不平等に対して不満を述べている人に対して「みんな同じ環境にいるんだから同じようにするのが当たり前」「みんな同じように我慢しているのに」と感じる(富永、2019)ようになるだろう。

 シニカルになるための手段として推し活と自己啓発をする。現実を真ん中にしてその2つを両端においた、冷笑の帯を生きる。ヘトヘトな中で頑張ったり意思決定をしたりハイテンションになったりしても、突拍子もないことを口走ったり決断したりしてしまう。よく精神科医が「今、大きな決断をしないでください」と諌めるように。不安や体調不良は、待っていれば気づいたら去る。「不安になってしまっている」「体調不良になってしまっている」、「なんでこうなんだろう」「いつまでこうなんだろう」と考えていると、どんどん倍加する。とはいえ、「待っていれば気づいたら去る」とことさらに思っているも、もっと待つことになる。それで、新世代の認知/行動療法では、マインドフルネスが大事だと言われる。行動面でできることはしつつ、心の中では、ただ「そうなりっぱなし」でいるだけ。いずれどうせ凪になる。不安の回避に労力を重きを置くほど、不安に対する不安はさらに膨らんでいく(ハリス、2024)。だから、その様子にただ曝されていることだけができること。それはきっと、辛い人の周りの人にとっても。

 とはいえそのなかで私もおじさん化してく。要するに誰もがハラスメントを生み出す空気を作っており、加害者でも被害者でもなくとも、よそ者として関わる必要がある(富永、2019)。まなざしの交換で空間ができて、その象徴が私になって、それが集まって社会ができる。「おじさん社会に隷従するために自らの言葉を失いながら啓蒙し合う」という自己啓発をやめて、生活のためのわがままを言う。帯の真ん中へとコンスタントに醒めて、そんな社会性を身につけないといけない。

 新入社員研修の一言目。「新社会人なので読書しようね。もちろん、それはビジネス本や自己啓発書に限るよ。僕は月◯冊読んでるからね」。彼は、私が次の研修を都合上休んだら「彼のことは色々聞いています。僕はいいですけど、◯◯さん(彼が隷従している上司)の印象が悪いですよ」と店長にLINEした。その研修では上司への口の利き方小テストをやってたようで、後日、上司から問題用紙を個別にいただいた。そして、次々回の研修では、心理学の交流分析をビジネス本に依拠して自己責任論へとリサイクルし、「怖い上司のかわし方♪」という講義を90分間し、「こちらがおとなモードにへんしん☆」という文字をスライドに映して、新入社員を啓蒙した。結果的にセクハラと差別発言の多さにで4人辞めた。同様の多くの先輩がい多様だった。一人は遺書を書いてた。社是には「すべての人に楽しさと幸せを」。

 人には、それぞれ特異性(一般的な枠組みから逸脱している部分)があって、そんな特異性との付き合い方を見つけられるのは自分だけで、たとえば芸術的創造をして特異性をポジティブに利用したり、特異性を受け入れない一般社会を変革しようとすることで解決したりする必要がある(片岡、2023)。でも、ホモソーシャルをみんなで崇拝しないと耐えられない集団においては、自己啓発の言葉と飲み会での酒に酔うのをやめて現実を問題視しようとすると、「大多数が気にしてないんだから黙れ。みんな嫌うぞ?」「だから大学出てる奴嫌いなんだよ」「お前は俺より年下なんだからはい以外言うな」「理屈で話すの俺ムカつくんだよ」などと怒鳴られ続ける。そして、すれ違うたびに中指を立てられ、「この仕事タバコ休憩できて楽だから他の仕事できない、楽しいしこんないい職場ない」「何回もトイレ行ってるけどホント帰れよ邪魔だから」などとと言われる。そして、当然ながら一人の動きで社会は変わらず一人が全ての課題を解決できるわけではないのに「やっても意味ない」「やっても社会は変わらない」という批判(富永、2019)をし、全か無か思考だけを頼りに取り乱し続ける。でも、何かに抵抗することで初めて自分らしさと向き合えて、自分が笑顔でいられる未来に向かってポジティブな原動力をもって進んでいけるのだ。特異性は、社会の中で何を個性として認めるかという境界性を画定して支配力を発揮する権力に対して、反権力的なもの(片岡、2023)だから。

 「美しく生きることが最大の抵抗だ」「優雅に生きることが最大の復讐だ」としばしば言われる。本当にそう思う。でも、そのようなクリシェは、容易に非社会性へと悪用され、自己啓発に満ちた「おいしい生活」へ大衆を導く。「何かに抵抗したり、敵対したり。そういうネガティブな感情を原動力にするのではなく、自分らしさと向き合って、自分が笑顔でいられる未来に向かってポジティブな原動力をもって進んでいくこと」が美しく生きることだそうだ。”抵抗しないぞ宣言”から始まる、スピリチュアルな意匠の根性論。おしゃれマチズモ。そうして、現実からシニカルになるための手段として推し活と自己啓発をする。現実を真ん中にしてその2つを両端においた、冷笑の帯を生きる。

note.com

 自我(その人が前提として抱いている自己イメージ)とは、その人の本性ではなく、客体化された自分であり、他者を通じて構築されているものを指す(片岡、2023)。イトイ式でデザインされた視座ー主体ではなく自我ーを自分らしさだと思いながら、抵抗するなんてもっての他で、社会を決して意識せず、ほぼ日刊のペースで自己責任を前提に社会を語る。ホモソーシャルは、自我の交換だけで持続する。美しさ・優雅さの内実が自己責任論になれば、あのクリシェは「自分や他の人がよりよく生きるために制度・認識を変えていく行動(富永、2019)」に向かう力を奪う免罪符になる。そのような行動が「わがまま」と片付けられてしまえば、われわれの生活する場所はより窮屈で苦しくなりうる(富永、2019)。そんな生き方は、おいしいだけで生活ではない。だから全く美しくない。一生おしゃれにハラスメントしてればいいのに。

 

3.内面化したまなざしを離して

 生活してれば「些細だけれど違和感が残る出来事(江原、2021)」が山積する。「また二の腕太ったな」「目めちゃくちゃ悪いね、もう失明じゃん」「次ミスしたらピアスんとこ叩いていい?」「胸小さいから巨乳サワー飲めよ」「ホントにそのカップ数なのか測ってやるよ」。 こんな、瞬間的に傷つけたり自由な言動を遮ったりするずるい言葉は、圧倒的に女性に向けられる(森山、2023)。恣意的・侮蔑的なまなざしで一方的に意味づけ・方向づけをされる。せっかく、デブだろうがガリガリだろうが今日も楽しくても。

 つねにすでに瞬間ごとにまなざしを内面化している、同時にまなざしている。そのまなざしの交換の集積で空間ができる。それがまたまなざしのありようへフィードバックされる。そうして生活ができる。だから、学び落とし(アンラーン)しなきゃ。別人として憧れられる前に、冗談とうんちくを忘れて笑顔になろう。シリアス(深刻)なことをシリアス(真面目)にして、スノッブ(お上品)でもヤンキー(下品)でもなく、オシャレでも楽しくもなく仲間づくりでもない、盛り上がらない単調な運動を。

 

【引用・参考】

江原由美子(2021). ジェンダー秩序【新装版】 勁草書房 

牧野智和(2015). 日常に侵入する自己啓発ー生き方・手帳術・片づけー 勁草書房 

森山至貴(2023). 10代から知っておきたい女性を閉じこめる「ずるい言葉」WAVE出版

村上靖彦(2023). 客観性の落とし穴 ちくまプリマー新書 

富永京子(2019). みんなの「わがまま」入門 左右社