抵抗はポップ

1.ふてぶてしい

 ハラスメントとかからかい、あるいは差別・偏見を感じる言動に文句を言うことは、私怨によるものじゃない。「構造的な威張り」(威張ろうとすれば威張れるからって威張るという振る舞い)とそれに伴う「構造的な逃げ」(逃げようとすれば逃げることができるからって逃げるという振る舞い)に対する抗いだ。それをしないと、「構造的威張れなさ」と構造的逃げられなさ」に陥る。要するに、「威張ろうとしても威張れないし威張れるとしても威張りたくもないという状況」、「逃げようとしても逃げられないし逃げられるとしても逃げたくないという状況」に陥る。そんなときに「上」にする訴えかけだから、社会的な批判だ。なのにハラッサーは、そのような「公怨」を私怨だと認識して、逆ねじを食わせる。「攻撃された!」「威張られた!」「怖い!」「あなたのあの言動だって!」。

 構造的なアンバランス。それぞれが同じような言動をしてても非対称だから、その言動の意味性がちがう。そしてそもそも、それぞれがしてる言動自体が違う。なのについ、「被害の状況を必要な配慮をせず細部まで当人に語らせようとする」「それほどひどい経験ではなかったとみなして被害者自身のリアリティを否定する」といった二次加害(森山、2023)を往々にして行う。安全な立場からついしてしまう、素っ頓狂な泣き顔や困り顔やほほえみ。すりかえられた話がその場で続く。威張れるぶん、わきまえなきゃいけない。その威張りの責任から逃げられるからこそ、逃げちゃいけない。そして、威張れないぶん、わきまえなくていい。あるいは、威張れないからこそ逃げていい。

 コミュニケーション不全なんかじゃなくて一方に過失がある出来事なのに、どんな出来事に対しても、「相性だね」「どっちもどっちだよ」「それぞれがそれぞれの正しさや正義をもっててお互いに自分が正しいと思ってるのさ」みたいに相対化して矮小化・単純化してしまう。あまつさえ、そんな態度のほうが大人な態度だとか社会的な態度だと物分かり顔で捉える。そんな反・非社会的な態度をしたり顔で説いて、あろうことか過失した張本人がその相手にそれを行う。素朴で問題含みの価値観を悦に入りながらドヤ顔で説教する素朴さ。そして、相手のほうを素朴だと思ってものを説いてくる素朴さ。その素朴さに気づかない素朴さ。

 死ぬまで重ねられる、威張られたり逃げられたりする物語。今まで重ねてきてしまい、今もつねにすでにしてる、威張ったり逃げたりしてしまう私の言動。素朴さを加速度的に喪失しなきゃ。

 

2.自己啓発で自己肯定

 今、役に立つこと・数字・競争への強迫観念(村上、2023)が横溢していて、数字と競争とライフハックが、「おじさんの価値観(家父長制)への隷従」へ方向づけられている。自己啓発本ブームについての本を探そうとAmazonを開けば、空の検索窓にカーソルを合わせただけで「自己啓発の教科書」がサジェストされた。副題「禁欲主義からアドラー引き寄せの法則まで」。禁欲とポップ・サイコロジーとスピリチュアルの三位一体で迫る自己変革。

 禁欲主義は、男性的とされている欲望を男性的に抑えて男性性を発揮したいという、ねじれた男性性に裏打ちされている(“「No Fap」「オナ禁」でテストステロンを増加させて男らしくなるために禁欲だ!”)。既存のヘゲモニーに基づいて抑圧して社会適応して、それを再生産する。本当にビジネスマン的。NoFap(オナ禁)は、「ポルノグラフィなどによる女性に対する客体化をやめたい」というフェミ的な目的じゃなく、①近いうちに男性性をより発揮して、②より女性を客体化するために、③男性性を男性的な方法で一旦抑えるという、ミソジニーに裏打ちされているだろう。本当に家父長的。また、(俗流)アドラー心理学における、①コンプレックスはすなわち劣等コンプレックスで、②全ての悩みはひっきょう人間関係で、③悩みは自らの目的のために自らで作り出しているという目的論は、容易に自己責任論をエスカレートさせる。本当に自己啓発的。あまつさえ引き寄せの法則に至っては、社会はおろか、心にも体にもコミットしていない。抑うつリアリズムから躁的防衛へ力づくでシフトする。そこに認知のリフレーミングはない。社会も心も志向してなくって、夢のような感覚があるだけ。スピリチュアル・マチズモ。

 これらに依拠して、おじさんに従うことを社是にしながら「お前はそんなことしないと思うけど、こういうことする人もいるから気をつけろよ」「俺は別にいいけど、こういうこと言う人もいるから気をつけろよ」というような言い方でしか叱責できないおじさんの集まる空間ができあがる。自らを匿名化しながら、世界を懸命に単純化して老いさらばえる。

 自己啓発書の書籍群において、既存の価値観を疑うようなことはなく、政治や経済、社会構造といったマクロの視点から世界を語ろうとすることは少ない(牧野、2015)。冷笑に裏打ちされた自己啓発をインプット/アウトプットして生活することは、要するに暴力的な社会構造の再生産だ。あげく、不平等に対して不満を述べている人に対して「みんな同じ環境にいるんだから同じようにするのが当たり前」「みんな同じように我慢しているのに」と感じる(富永、2019)ようになるだろう。

 シニカルになるための手段として推し活と自己啓発をする。現実を真ん中にしてその2つを両端においた、冷笑の帯を生きる。ヘトヘトな中で頑張ったり意思決定をしたりハイテンションになったりしても、突拍子もないことを口走ったり決断したりしてしまう。よく精神科医が「今、大きな決断をしないでください」と諌めるように。不安や体調不良は、待っていれば気づいたら去る。「不安になってしまっている」「体調不良になってしまっている」、「なんでこうなんだろう」「いつまでこうなんだろう」と考えていると、どんどん倍加する。とはいえ、「待っていれば気づいたら去る」とことさらに思っているも、もっと待つことになる。それで、新世代の認知/行動療法では、マインドフルネスが大事だと言われる。行動面でできることはしつつ、心の中では、ただ「そうなりっぱなし」でいるだけ。いずれどうせ凪になる。不安の回避に労力を重きを置くほど、不安に対する不安はさらに膨らんでいく(ハリス、2024)。だから、その様子にただ曝されていることだけができること。それはきっと、辛い人の周りの人にとっても。

 とはいえそのなかで私もおじさん化してく。要するに誰もがハラスメントを生み出す空気を作っており、加害者でも被害者でもなくとも、よそ者として関わる必要がある(富永、2019)。まなざしの交換で空間ができて、その象徴が私になって、それが集まって社会ができる。「おじさん社会に隷従するために自らの言葉を失いながら啓蒙し合う」という自己啓発をやめて、生活のためのわがままを言う。帯の真ん中へとコンスタントに醒めて、そんな社会性を身につけないといけない。

 新入社員研修の一言目。「新社会人なので読書しようね。もちろん、それはビジネス本や自己啓発書に限るよ。僕は月◯冊読んでるからね」。彼は、私が次の研修を都合上休んだら「彼のことは色々聞いています。僕はいいですけど、◯◯さん(彼が隷従している上司)の印象が悪いですよ」と店長にLINEした。その研修では上司への口の利き方小テストをやってたようで、後日、上司から問題用紙を個別にいただいた。そして、次々回の研修では、心理学の交流分析をビジネス本に依拠して自己責任論へとリサイクルし、「怖い上司のかわし方♪」という講義を90分間し、「こちらがおとなモードにへんしん☆」という文字をスライドに映して、新入社員を啓蒙した。結果的にセクハラと差別発言の多さにで4人辞めた。同様の多くの先輩がい多様だった。一人は遺書を書いてた。社是には「すべての人に楽しさと幸せを」。

 人には、それぞれ特異性(一般的な枠組みから逸脱している部分)があって、そんな特異性との付き合い方を見つけられるのは自分だけで、たとえば芸術的創造をして特異性をポジティブに利用したり、特異性を受け入れない一般社会を変革しようとすることで解決したりする必要がある(片岡、2023)。でも、ホモソーシャルをみんなで崇拝しないと耐えられない集団においては、自己啓発の言葉と飲み会での酒に酔うのをやめて現実を問題視しようとすると、「大多数が気にしてないんだから黙れ。みんな嫌うぞ?」「だから大学出てる奴嫌いなんだよ」「お前は俺より年下なんだからはい以外言うな」「理屈で話すの俺ムカつくんだよ」などと怒鳴られ続ける。そして、すれ違うたびに中指を立てられ、「この仕事タバコ休憩できて楽だから他の仕事できない、楽しいしこんないい職場ない」「何回もトイレ行ってるけどホント帰れよ邪魔だから」などとと言われる。そして、当然ながら一人の動きで社会は変わらず一人が全ての課題を解決できるわけではないのに「やっても意味ない」「やっても社会は変わらない」という批判(富永、2019)をし、全か無か思考だけを頼りに取り乱し続ける。でも、何かに抵抗することで初めて自分らしさと向き合えて、自分が笑顔でいられる未来に向かってポジティブな原動力をもって進んでいけるのだ。特異性は、社会の中で何を個性として認めるかという境界性を画定して支配力を発揮する権力に対して、反権力的なもの(片岡、2023)だから。

 「美しく生きることが最大の抵抗だ」「優雅に生きることが最大の復讐だ」としばしば言われる。本当にそう思う。でも、そのようなクリシェは、容易に非社会性へと悪用され、自己啓発に満ちた「おいしい生活」へ大衆を導く。「何かに抵抗したり、敵対したり。そういうネガティブな感情を原動力にするのではなく、自分らしさと向き合って、自分が笑顔でいられる未来に向かってポジティブな原動力をもって進んでいくこと」が美しく生きることだそうだ。”抵抗しないぞ宣言”から始まる、スピリチュアルな意匠の根性論。おしゃれマチズモ。そうして、現実からシニカルになるための手段として推し活と自己啓発をする。現実を真ん中にしてその2つを両端においた、冷笑の帯を生きる。

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 自我(その人が前提として抱いている自己イメージ)とは、その人の本性ではなく、客体化された自分であり、他者を通じて構築されているものを指す(片岡、2023)。イトイ式でデザインされた視座ー主体ではなく自我ーを自分らしさだと思いながら、抵抗するなんてもっての他で、社会を決して意識せず、ほぼ日刊のペースで自己責任を前提に社会を語る。ホモソーシャルは、自我の交換だけで持続する。美しさ・優雅さの内実が自己責任論になれば、あのクリシェは「自分や他の人がよりよく生きるために制度・認識を変えていく行動(富永、2019)」に向かう力を奪う免罪符になる。そのような行動が「わがまま」と片付けられてしまえば、われわれの生活する場所はより窮屈で苦しくなりうる(富永、2019)。そんな生き方は、おいしいだけで生活ではない。だから全く美しくない。一生おしゃれにハラスメントしてればいいのに。

 

3.内面化したまなざしを離して

 生活してれば「些細だけれど違和感が残る出来事(江原、2021)」が山積する。「また二の腕太ったな」「目めちゃくちゃ悪いね、もう失明じゃん」「次ミスしたらピアスんとこ叩いていい?」「胸小さいから巨乳サワー飲めよ」「ホントにそのカップ数なのか測ってやるよ」。 こんな、瞬間的に傷つけたり自由な言動を遮ったりするずるい言葉は、圧倒的に女性に向けられる(森山、2023)。恣意的・侮蔑的なまなざしで一方的に意味づけ・方向づけをされる。せっかく、デブだろうがガリガリだろうが今日も楽しくても。

 つねにすでに瞬間ごとにまなざしを内面化している、同時にまなざしている。そのまなざしの交換の集積で空間ができる。それがまたまなざしのありようへフィードバックされる。そうして生活ができる。だから、学び落とし(アンラーン)しなきゃ。別人として憧れられる前に、冗談とうんちくを忘れて笑顔になろう。シリアス(深刻)なことをシリアス(真面目)にして、スノッブ(お上品)でもヤンキー(下品)でもなく、オシャレでも楽しくもなく仲間づくりでもない、盛り上がらない単調な運動を。

 

【引用・参考】

江原由美子(2021). ジェンダー秩序【新装版】 勁草書房 

牧野智和(2015). 日常に侵入する自己啓発ー生き方・手帳術・片づけー 勁草書房 

森山至貴(2023). 10代から知っておきたい女性を閉じこめる「ずるい言葉」WAVE出版

村上靖彦(2023). 客観性の落とし穴 ちくまプリマー新書 

富永京子(2019). みんなの「わがまま」入門 左右社