【来週の読書会用メモ】女ぎらいーニッポンのミソジニーー/上野千鶴子

ミソジニー(女性嫌悪・女性蔑視・女ぎらい)の男には、女好きが多い

…女好きのミソジニーの男は娼婦好き(娼婦を人間として愛するのではなく、カネで買った女を自由に玩び、ときには本人の自制に反してまで自らすすんで従わせることが好き)が多い

→自分を性的に男だと証明しなければならないそのたびに、女というおぞましい・汚らわしい・理解を超えた生き物にその欲望の充足を依存せざるをえないことに対する、怨嗟と怒り

ミソジニーは、女にとっては自己嫌悪

・苦界にある女への道場や共感は、厳然と引かれた階級とジェンダーの境界線を舞台装置として、絶対安全圏にいる者の自己満足のための資源となる

・聖女と崇められようが売女と蔑まれようが、同じ盾の両面

・男は今も昔も、現実の女から逃走してヴァーチャルな女に萌える

フェティシズム:換喩的な関係によって欲望の対象が置き換えられる、記号的な操作

 

・男の値打ちは、男同士の世界での覇権ゲームで決まる

・女の世界の覇権ゲームは女の世界では完結しない…必ず男の評価が入って女同士を分断する

ホモソーシャル:性的であることを抑圧した男同士の絆

・貫かれること(モノにされること、性的客体となること)を女性化されるとも言う

…男性が最も怖れたのは、性的主体化の位置から転落することであった

ホモソーシャルな連帯:性的主体(と認め合った者)同士の連帯であり、男になり損ねた男と女を排除して差別することで成り立っている

・猥談:女性を性的客体として貶め、言語的な陵辱の対象として共有する儀礼トーク

 

・他者化:相手を理解不能な存在(異人・異物・異教徒)としてわれわれから放逐する様式

・男は、「自分は女のような男ではない」と証明し続けなければならない

・性の二重基準:男向けの性道徳と女向けの性道徳が違う

…男は色好みであることが価値であるとされるが、女は性的に無知で無垢であることがよしとされる

・少女:性的に成熟した年齢に達しているにもかかわらず、その性的使用が禁止された身体の持ち主

 

・弱者男性が最下位に来る序列からは、最弱者女性が排除されている
・家事負担がない分だけ弱者女性より有利かもしれないことにも気づかない
…弱者男性論者は、女性の現状に理解も関心もない
・売買春は、コミュニケーションの過程を金銭を媒介に一気に短縮する強姦の一種
・加藤の頭の中では、女とは男の外見に惹きつけられる単純な生き物だと見なされているようだ
・彼女がいることが全てのマイナスから自分を救ってくれる逆転必勝の切り札だと考える彼の思考は完全に倒錯している
・恋愛市場から降りる特権すら彼らは持っている
ホモソーシャリティ:男は女に選ばれることではなく、男同士の集団のなかでメンバーとして認められることでことで初めて男になる
…加入資格は「彼女がいる=女をひとり所有する(文字通りモノにする)」こと
・男にとって最大の女の役割…自尊心のお守り役
・友人関係:利害や役割を伴わず、直接的な利益を得ることが期待できない
…維持するのが難しい
 
少年愛を児童性虐待と呼び変えたらどうなるだろうか
・性は欲望の言語で愛は関係の言語であり、性が愛を随伴することもあればそうでないこともある
・性欲:個人の内部で完結する大脳内の現象(何が性欲の装置となるかは、人や文化で違う)
・性行為:欲望が行動化したもの
…その行動には他者(身体)を必要とする場合とそうでない場合がある
マスターベーションは、他人を相手にする性交にとってかわるための準備でもなければ、不完全な代替物でもない
マスターベーション(パートナーのないセックス)は、自己身体との合意のいらない性行為

【感想】君の六月は凍る/王谷晶

1.テンション

 敬体だったことが、印象的だった。小説は、内容以上に人称と文体が本体のように思う。エッセイや日記あるいは論考などと違って、「この物語での地の文っていったいなんだろう」ということがまず問題になる(筆者が設定できる)。この小説では、一人称「わたし」で綴られる敬体の文章のなかで、君が記述される。すると、なぜかこの私を指してるように感じる。卑近な言い方をしてしまうと、少し手紙のそれに近かった。ひるがえって「私の六月が凍るんだ」という感覚になる。そうして読み進める。

 物語は、懐かしさからーというか「懐かしさを今感じている」ということを打ち明けることからー始まる。思い出せないけど覚えてることが生きてると増えていくけれど、何かを懐かしいと思うことは難しい。懐かしがってもいいことなのかわからないから。時間は物事を解決はしないけれど、「何もかもを鈍化させます。わたしの記憶は気づかないうちにだいぶ曖昧に、そして単純に均されていたようです」(p8)。

 「わたし」と君とは、どこか緊張感があった。嫌いだから離れるとか、「やなやつ」(p31)だから離れるということでもない。嫌いようもないし、嫌いたくもない。そんなアンビバレンスがある。鳥小屋での君と、家できょうだいのZといるときの君は、「目が違う」「別人」(pp39-40)。「その日はZはいなかったので、君は正気のまま、家の外で見る君のままでいてくれました」(p59)。「一瞬、あの君の家の中での君とZの姿が浮かび、消えかけていた怒りが足元から這い上がってきました」(p44)。

 相手がいろんな面を持ってるときーとくにそれぞれがかけ離れて見えるときー、怯える気持ちも沸くけれど近づきたい、のにどこか引いてしまう。そんなトリレンマが人を裂こうとする。「わけが分からないくらい腹を立てていたのに、次に思い出すのは、やっぱりあの鳥小屋で君と会っている情景なのです」(p42)。

 

2.知らない部分

 私自身が幼いころした会話を思い出す。「この卵割ってひよこ出てきたら怖いや」「これ無精卵だよ笑」。ちょうどそのころ、「両親は自分が幼稚園で過ごしてる間に工場に行ってて、目の前にいないときも生きてて私の知らない頭の中があるんだ」とゾッとしていた。1日2個食べましょうと言われて食べてるそれも、家族も、本来、有機的で別人。言動する箱や栄養を与える機能として済ませられない中身がある。モノ化しようにも、何かがはみ出てくる。

 他者にも自分にも、そんな内部(表面には見えていないもの)がある。内臓、食べた物、心。そんな内部が非物質的に外在化するものが、においや体温。汗や唾液や精液や排泄物や涙なら物質的に外在化しているけれど、そういうのとも違う。内部があまりに不意に(非物質的そして非言語的に)外在化することに人は戸惑う。それはたとえば、急ににおうときや急に触れられるとき。

 

3.衝動と大声

 本って閉じている時は文字がないのかもしれない。そんなふうに思って確かめるために開く。文字はある。ゆーっくり開く。やっぱりある。不安で確かめたくなる。次のページが透けながら読書できる安心感のように、相手のもつ向こう側が全く見えないわけでもとても見えているわけでもなく、垣間見えていると人は安心するのかもしれない。内部がないかのように振る舞っていたり存在していたりするものには、欺瞞を感じる。気取ってて、おすまし。でも、内部が急にあるいは過度に表れると、それはそれでとても戸惑う。だから、緊張感が2人を保つときがある。他者性を守り合うための緊張関係が実は必要なときがあるのかもしれない。

 「Zと一緒に居るとき以外の君は私が感じる通りの君だったし、その君だけ見ていられればいいと思いました」(p73)。ここだけ、”私”表記だったように思う。2人とも同じ場所を必要としてたことがわかってから、何かがわたしを答えに向かわせた。そして、君の六月が凍った。

 私も誰かの来月を凍らせる気がする。

いつかは弱さを支えて

1.スピリチュアル・マチズモ

 今、役に立つこと・数字・競争への強迫観念(村上、2023)が横溢していて、そこでは数字と競争とライフハックが、おじさんの価値観(家父長制)への隷従へ方向づけられている。ふと自己啓発本ブームについての本を探そうとAmazonを開けば、検索バーにカーソルを合わせただけで「自己啓発の教科書」がサジェストされた。副題「禁欲主義からアドラー引き寄せの法則まで」。自己変革が禁欲とポップ・サイコロジーとスピリチュアルの三位一体で迫られる。

 禁欲主義は、男性的とされている欲望を男性的に抑えて男性性を発揮したいという、ねじれた男性性に裏打ちされている(“「No Fap」「オナ禁」でテストステロンを増加させて男らしくなるために禁欲だ!”)。既存のヘゲモニーに基づいて抑圧して社会適応して、それを再生産する。ビジネスマン的。

 NoFap(オナ禁)は、「ポルノグラフィなどによる女性に対する客体化をやめたい」というフェミ的な目的じゃなく、①近いうちに男性性をより発揮して、②より女性を客体化するために、③男性性を男性的な方法で一旦抑えるという、ミソジニーに裏打ちされているだろう。家父長的。また、(俗流)アドラー心理学における、①コンプレックスはすなわち劣等コンプレックスで、②全ての悩みはひっきょう人間関係で、③悩みは自らの目的のために自らで作り出しているという目的論は、容易に自己責任論をエスカレートさせる。本当に自己啓発的。あまつさえ引き寄せの法則に至っては、社会はおろか、心にも体にもコミットしていない。抑うつリアリズムから躁的防衛へ力づくシフトする。そこに認知のリフレーミングはない。社会も心も志向してなくて、夢のような感覚があるだけ。スピリチュアル・マチズモ。

 これらに依拠して、おじさんに従うことを社是にしながら「お前はそんなことしないと思うけど、こういうことする人もいるから気をつけろよ」「俺は別にいいけど、こういうこと言う人もいるから気をつけろよ」というような言い方でしか叱責できないおじさんの集まる空間ができあがる。自らを匿名化しながら、世界を懸命に単純化して老いさらばえる。

 自己啓発書の書籍群において、既存の価値観を疑うようなことはなく、政治や経済、社会構造といったマクロの視点から世界を語ろうとすることは少ない(牧野、2015)。冷笑に裏打ちされた自己啓発をインプット/アウトプットして生活することは、要するに暴力的な社会構造の再生産だ。あげく、不平等に対して不満を述べている人に対して「みんな同じ環境にいるんだから同じようにするのが当たり前」「みんな同じように我慢しているのに」と感じる(富永、2019)ようになるだろう。

 シニカルになるための手段として推し活と自己啓発をする。現実を真ん中にしてその2つを両端においた、冷笑の帯を生きる。ヘトヘトな中で頑張ったり意思決定をしたりハイテンションになったりしても、突拍子もないことを口走ったり決断したりしてしまう。よく精神科医が「今、大きな決断をしないでください」と諌めるように。

 不安や体調不良は、待っていれば気づいたら去る。「不安になってしまっている」「体調不良になってしまっている」、「なんでこうなんだろう」「いつまでこうなんだろう」と考えていると、どんどん倍加する。とはいえ、「待っていれば気づいたら去る」とことさらに思っていても、もっと待つことになる。ただ「そうなりっぱなし」でいるだけ。いずれどうせ凪になる。不安の回避に労力を重きを置くほど、不安に対する不安はさらに膨らんでいく(ハリス、2024)。だから、その様子にただ曝されていることだけができる。それはきっと、辛い人の周りの人にとっても。

 

2.自己啓発で自己肯定

 そんな空間で私も一瞬ずつおじさん化する。要するに誰もがハラスメントを生み出す空気を作っているから、加害者でも被害者でもなくとも、よそ者として関わる必要がある(富永、2019)。まなざしの交換で空間ができて、その象徴が私になって、それが集まって社会ができる。「おじさん社会に隷従するために自らの言葉を失いながら啓蒙し合う」という自己啓発をやめて、生活のためのわがままを言う。帯の真ん中へとコンスタントに醒める社会性を身につけないといけない。

 新入社員研修の一言目。「新社会人なので読書しようね。もちろん、それはビジネス本や自己啓発書に限るよ。僕は月◯冊読んでるからね」。彼は、私が次の研修を都合上休んだら「彼のことは色々聞いています。僕はいいですけど、◯◯さん(彼が隷従している上司)の印象が悪いですよ」と店長にLINEした。その研修では上司への口の利き方小テストをやってたようで、後日、上司から問題用紙を個別にいただいた。そして、次々回の研修では、心理学の交流分析をビジネス本に依拠して自己責任論へとリサイクルし、「怖い上司のかわし方♪」という講義を90分間し、「こちらがおとなモードにへんしん☆」という文字をスライドに映して、新入社員を啓蒙した。結果的にセクハラと差別発言の多さにで4人辞めた。同様の多くの先輩がい多様だった。一人は遺書を書いてた。社是には「すべての人に楽しさと幸せを」。

 人には、それぞれ特異性(一般的な枠組みから逸脱している部分)があって、そんな特異性との付き合い方を見つけられるのは自分だけで、たとえば芸術的創造をして特異性をポジティブに利用したり、特異性を受け入れない一般社会を変革しようとすることで解決したりする必要がある(片岡、2023)。でも、ホモソーシャルをみんなで崇拝しないと耐えられない集団においては、自己啓発の言葉と飲み会での酒に酔うのをやめて現実を問題視しようとすると、「大多数が気にしてないんだから黙れ。みんな嫌うぞ?」「だから大学出てる奴嫌いなんだよ」「お前は俺より年下なんだからはい以外言うな」「理屈で話すの俺ムカつくんだよ」などと怒鳴られ続ける。そして、すれ違うたびに中指を立てられ、「この仕事タバコ休憩できて楽だから他の仕事できない、楽しいしこんないい職場ない」「何回もトイレ行ってるけどホント帰れよ邪魔だから」などとと言われる。そして、当然ながら一人の動きで社会は変わらず一人が全ての課題を解決できるわけではないのに「やっても意味ない」「やっても社会は変わらない」という批判(富永、2019)をし、全か無か思考だけを頼りに取り乱し続ける。でも、何かに抵抗することで初めて自分らしさと向き合えて、自分が笑顔でいられる未来に向かってポジティブな原動力をもって進んでいけるのだ。特異性は、社会の中で何を個性として認めるかという境界性を画定して支配力を発揮する権力に対して、反権力的なもの(片岡、2023)だから。

 「美しく生きることが最大の抵抗だ」「優雅に生きることが最大の復讐だ」としばしば言われる。本当にそう思う。でも、そのようなクリシェは、容易に非社会性へと悪用され、自己啓発に満ちた「おいしい生活」へ大衆を導く。「何かに抵抗したり、敵対したり。そういうネガティブな感情を原動力にするのではなく、自分らしさと向き合って、自分が笑顔でいられる未来に向かってポジティブな原動力をもって進んでいくこと」が美しく生きることだそうだ。”抵抗しないぞ宣言”から始まる、スピリチュアルな意匠の根性論。おしゃれマチズモ。そうして、現実からシニカルになるための手段として推し活と自己啓発をする。現実を真ん中にしてその2つを両端においた、冷笑の帯を生きる。

 自我(その人が前提として抱いている自己イメージ)とは、その人の本性ではなく、客体化された自分であり、他者を通じて構築されているものを指す(片岡、2023)。イトイ式でデザインされた視座ー主体ではなく自我ーを自分らしさだと思いながら、抵抗するなんてもっての他で、社会を決して意識せず、ほぼ日刊のペースで自己責任を前提に社会を語る。ホモソーシャルは、自我の交換だけで持続する。美しさ・優雅さの内実が自己責任論になれば、あのクリシェは「自分や他の人がよりよく生きるために制度・認識を変えていく行動(富永、2019)」に向かう力を奪う免罪符になる。そのような行動が「わがまま」と片付けられてしまえば、われわれの生活する場所はより窮屈で苦しくなりうる(富永、2019)。そんな生き方は、おいしいだけで生活ではない。だから全く美しくない。一生おしゃれにハラスメントしてればいいのに。

 

3.身軽なトーク(内面化したまなざしを離して)

 生活してれば「些細だけれど違和感が残る出来事(江原、2021)」が山積する。「また二の腕太ったな」「目めちゃくちゃ悪いね、もう失明じゃん」「次ミスしたらピアスんとこ叩いていい?」「胸小さいから巨乳サワー飲めよ」「ホントにそのカップ数なのか測ってやるよ」。 こんな、瞬間的に傷つけたり自由な言動を遮ったりするずるい言葉は、圧倒的に女性に向けられる(森山、2023)。恣意的・侮蔑的なまなざしで一方的に意味づけ・方向づけをされる。せっかく、デブだろうがガリガリだろうが今日も楽しくても。

 つねにすでに瞬間ごとにまなざしを内面化している、同時にまなざしている。そのまなざしの交換の集積で空間ができる。それがまたまなざしのありようへフィードバックされる。そうして生活ができる。だから、学び落とし(アンラーン)しなきゃ。別人として憧れられる前に、冗談とうんちくを忘れて笑顔になろう。シリアス(深刻)なことをシリアス(真面目)にして、スノッブ(お上品)でもヤンキー(下品)でもなく、オシャレでも楽しくもなく仲間づくりでもない、盛り上がらない単調な運動を。

 

【引用・参考】

江原由美子(2021). ジェンダー秩序【新装版】 勁草書房 

片岡一竹(2023). ゼロから始めるジャック・ラカンー疾風怒濤精神分析入門ー ちくま文庫

牧野智和(2015). 日常に侵入する自己啓発ー生き方・手帳術・片づけー 勁草書房 

森山至貴(2023). 10代から知っておきたい女性を閉じこめる「ずるい言葉」WAVE出版

村上靖彦(2023). 客観性の落とし穴 ちくまプリマー新書 

富永京子(2019). みんなの「わがまま」入門 左右社

 

気の抜けた面持ち〜元気でも元気じゃなくても〜

1.ACTという心理療法

 よく、「暇だから悩むんだよ」「体力が余ってるから悩むんだよ」って言う。けど、忙しいなか悩むことだって全然ある。だいいち、心身の体力がなくなるまで悩んで、心身の体力がなくなってからでもえんえんと悩むからこそ、相当に病んだりする。そして生活ができなくなる。あるいは無理して生活する。それで体力が及第点まで来たら、またえんえんと悩み始める。そんな0とマイナスを往復する運用で、元気なときがあるわけがない。

 ある日、「先に服を脱いじゃえばパッとお風呂行ける」というライフハックを聞いたけど、裸のまま3時間が経った。自分の疲れや感情を認めたり、相手のそれらを認めたりすることの大切さを思う。

 ACT(アクセプタンス &コミットメント・セラピー)という認知行動療法がある。これは「マインドフルで、かつ価値に導かれたアクション」をできるようになることを目的にした心理療法だ。この療法の考え方は、その人がどんな行動をするかということ自体は問題視されない。たとえば予定を断ったとしても、あるいは会いに行ったとしても、それがその人の価値にコミットされた行為(価値に導かれた/動機づけられた効果的な行動:ハリス、2024)かどうかが大事。つまり、価値に向かっているかどうかという有効性(workability)を重視するのだ。

 ACTでは、「好ましくない不快な私的経験(思考、感情、記憶、イメージ、情動、衝動、欲求、願望、感覚など他の人にはわからない体験)の回避や排除に時間・エネルギーを費やすほど、長期的には心理的に苦しむ可能性が高まる」と考える(ハリス、2024)。そして、私的体験を受け止めて(アクセプタンスして)、価値に導かれたアクションを起こし、なりたい自分になるように振る舞うことを重視する。

 だから、エーシーティーではなくアクト(act)と読む。

 

2.元気ないときは元気なさげ〜いつかは弱い人たちの支えに〜

 体調不良を病理化せずに厳罰化/嘲笑する価値観が社会にあって、それを内面化した自分の中にもある。そんな価値観がかえってみんなを病弱にしてく。

 職場で頭痛持ちか訊かれた。答えれば、「みんな一緒だよ俺も頭痛いんだよ」。数週間後の彼は、「俺もう頭痛いんだよね、何もできないからどっか行っててくんない?」。ボスの頭痛は私のそれと異なる。人を動かす頭痛。数日後に私は早退する。指示通り謝ってから帰る。翌日治らないまま行く。「謝れよ」と言われる。改めて謝って周る。

 しばらくして、発熱者が毎日発生した。合間の時間、誰かに向かって「〇〇さんのせいじゃねえかよ」と言い合う声。彼が復帰する。「お前のせいでみんな熱になったんだけどどうしてくれる」と怒鳴りるのが売り場まで聞こえる。彼は否定する。でも言われ続ける。謝ってオチになって、みんな笑って休憩終わった。

 元気ないとき、その元気のなさにいっそう元気をなくすときがある。あるいは、不安なとき、不安に思っているという自分に不安になるときがある。落ち込んでる自分に落ち込んでしまう。「憂うつになって疲れて休んでいる自分」に憂うつになって、横になってるのにいっそう疲れる。そして、そのことにも悩む。縦(メタ)に延々と疲れて私を失って、鼓舞だけ残る。最後には鼓舞にも疲れ果てて悲しい結末になる。溺れているときにバシャバシャして、もっと溺れたり沈んだりするみたいに。沼にハマっているときに慌ててバタバタして、もっと抜け出せなくなるみたいに。

 元気ないなら元気なくいないと、虚勢でできた変な動きが人ーそして自分ーを傷つける。病気じゃないなら休んではいけないという感覚が共有されていること自体が不自由であり、誰でも休みたいときはあるし、休みたいときには休めた方がいい(森山、2023)。疲れや不調や不安には、みんなで観念して身を預けること。そのうえで今の自分にとって価値のあることに関わっていく。身を預けて初めて、溺れてた体が泳いだり、埋まってた足で歩けたりする。これを、アクセプタンス(オープンになってスペースを作り、私的体験を受け入れること:ハリス、2024)という。このアクセプタンスは、私的体験を積極的に受け入れることであって、状況を受動的に受け入れることではない(ハリス、2024)。つまり無理することでも諦めることでもないし、根性論でもない。私的体験やそれを体験してしまう自分を回避・排除するより受け入れて、価値に基づいて過ごすこと。不安感や憂うつや慢性痛などを受け止めて、抱えつつ価値に従うということ。

 こうして、自分や相手のアンビバレントな感情を知的に割り切ろうとするのではなく、矛盾する2つの感情に気づいたり、気持ちの流れ・変化についていったりする(平木、2021)ことで、弱さを抱えたり休んだりしつつ自分の大事なものへ向かえる。それが、誰かのためになる。そして、自分のためになる。

 自分に対する弱さ嫌悪(ウィークネス・フォビア)を治すこと。弱さ嫌悪な自分もアクセプタンスしつつ。そして、虚勢と露悪を離れて自分なりに素敵であろうとすること。虚勢を張りがちでつい露悪的になる自分もアクセプタンスしつつ。

 社会問題は、それぞれのキャリア(生成史)がありつつ、一定のパターンを有する(森田、2010)。すなわち、社会のなかの誰かが「困った状態」だと申し立ててさまざまな立場の人がやりとりをすることで、社会的に構築されてく(森田、2010)。そうして問題が問題視される。だから瞬間ごとに問題視して、冷笑から現実へと醒めてかないといけない。受け止められないということも含めて受け止めて、自分の価値に向かう。そんなアクセプタンスしてコミットメントするあり方が、不自然さへとズレた人を、自然体に戻す。

 

<引用・参考>

木典子(2021). 三訂版アサーション・トレーニングーさわやかな<自己表現>のためにー 日精研

三橋順子(2023). これからの時代を生き抜くためのジェンダー&セクシュアリティ論入門 辰巳出版

森田洋司(2010). いじめとは何か 中公新書 

森山至貴(2023). 10代から知っておきたい女性を閉じこめる「ずるい言葉」WAVE出版

ラス・ハリス(2024)・武藤崇・嶋大樹・坂野朝子(監訳)・武藤崇・嶋大樹・川島寛子(訳) よくわかるACTー明日から使えるACT入門ー<改訂第2版> 星和書店

富永京子(2019). みんなの「わがまま」入門 左右社

 

 

 

 

セルフケアしてもしなくても、セルフラブしてもしなくても

 1.神経質がえし

 車でくるりのベストを流していた。「男の子と女の子」という曲が始まる。同乗者が摂食障害で辛いというのを私が気にして、「好きだという気持ちだけで 何も食べなくていいくらい愛しい顔を見せてくれよ」という部分で慌てて会話を始めた私。

youtu.be

 

 でも、そんなふうに隣り合って2人で神経質になっても、お互いにダメージを負うだけ。相手の神経質に神経質で応じると、関係性は持続されなくなる。激化して破綻する。だから、構造化したペースでお互いをなだめる。安定性とスパン。慢性的な疼痛やパーソナリティの問題や精神疾患は、「治らなくても楽しい」って感じでいるのが実は逆にいい。

 翌日の駐車場。私に「ボディポジティブなんて甘えだよ。あの人たちキラキラしてるけど、私あんなふうには無理だよ」とおもむろに泣きながら言った。何を思って何を言えばいいのか分からなかった。それに、だいいちとにかく黙ることだから。

 

2.きっと大丈夫

 母親が突然夜中に氷を舐め続けるようになったり、祖母が突然笑いだして飛び跳ねるようになったり、ベッドで彼女のすごい量のアームカットを見て泣いたり、元カノが幻覚見え始めたりしてきた。好きな人たちがいつかどうにかなることが、いつも恐い。

 幼いころ、「子どもはなぜいないいないばあで喜ぶのか」というくだりを、評論文で読んだ。これが未だに印象的。子供は、目の前から養育者の姿がいったん見えなくなると、世界から消えてしまったんだと思って絶望的になる。だから、「ばあ」と再会すると、もう本当に嬉しくて破顔する。そんなゲーム。いったんを永遠だと感じて号泣しかけて、その情動が破顔へと急旋回する。大変だ。

 「大丈夫、いなくなってないよ」「大丈夫、いなくならないよ」。そんな価値判断を超えたまなざしで、ただ愛らしくお互いをなだめる。そんな関係性が慈愛なのかもって思う。相手の神経質で不安定で気難しい世界観に入り込んだり触れたりして行き詰まったら、愛に旋回して静かに安定的に関わること。知識もディスも説教も本当にいらない。

 

3.元気ないときは元気なさげ〜いつかは弱い人たちの支えに〜

 職場で頭痛持ちか訊かれた。それで答えれば、「みんな一緒だよ俺も頭痛いんだよ」。数週間後の彼は、「俺もう頭痛いんだよね、ちょっと何もできないからどっか行っててくんない?」。ボスの頭痛は私のそれと違う。人を動かす頭痛。数日後に私は早退する。指示の通り謝ってから帰る。翌日治らないまま行く。「謝れよ」と言われる。改めて謝って周る。しばらくして、発熱者が毎日発生した。合間の時間、誰かに向かって「〇〇さんのせいじゃねえかよ」と言い合う声。彼が復帰する。「お前のせいでみんな熱になったんだけど、どうしてくれる」という怒鳴りが売り場に聞こえる。彼は否定して、それでも言われ続け、それで謝った。みんな笑って休憩終わった。

 体調不良を病理化せずに厳罰化/嘲笑する価値観が、社会にあって、それを内面化した自分の中にもある。そんな価値観がかえってみんなを病弱にしていく。

 元気ないとき、その元気のなさにいっそう元気をなくすときがある。あるいは、不安なとき、不安に思っているという自分が大丈夫か不安になるときがある。そんなふうに、落ち込んでいる自分に落ち込んでしまうことはよくあるように思う。「憂うつになって疲れて休んでいる自分」に憂うつになって、横になってるのにいっそう疲れる。そして、そのことにも悩む。縦(メタ)に延々と疲れて私を失って、鼓舞だけ残る。最後には、その鼓舞にも疲れ果てて悲しい結末になる。溺れているときにバシャバシャして、もっと溺れたり沈んだりするみたいに。沼にハマっているときに慌ててバタバタして、もっと抜け出せなくなるみたいに。

 元気ないなら元気なくいないほうが、変な動きや虚勢が人ーそして自分ーを傷つける。病気じゃないなら休んではいけないという感覚が共有されていること自体が不自由であり、誰でも休みたいときはあるし、休みたいときには休めた方がいい(森山、2023)。つまり、疲れや不調や不安には、みんなで観念して身を預けること。その上で今の自分にとって価値のあることに関わっていく。身を預けて初めて、溺れてた体が泳いだり、埋まって足で歩けたりする。これがすなわち、アクセプタンス(オープンになってスペースを作り、私的体験を受け入れること:ハリス、2024)の有効さだ。

 アクセプタンスとは、私的体験を積極的に受け入れることであって、状況を受動的に受け入れることではない(ハリス、2024)。無理することでも諦めることでもないし、根性論と違う。私的体験やそれを体験してしまう自分を回避・排除するより受け入れて、価値に基づいて過ごすこと。不安感や憂うつや慢性痛などを受け止めて、抱えつつ価値に従うということ。それが休むことでも少し歩いてみることでも、コミットされた行為かどうか。

 まず、自分に対する弱さ嫌悪(ウィークネス・フォビア)を治すこと。弱さ嫌悪な自分もアクセプタンスしつつ。そして、虚勢と露悪を離れて自分なりに素敵であろうとすること。虚勢を張りがちでつい露悪的になる自分もアクセプタンスしつつ。

 こうして、自分や相手のアンビバレントな感情を知的に割り切ろうとするのではなく、矛盾する2つの感情に気づいたり、気持ちの流れ・変化についていったりする(平木、2021)ことで、弱さを抱えたり休んだりしつつ自分の大事なものへ向かえる。それが、誰かのためになる。そして、自分のためになる。

 受け止められないということも含めて受け止めて、自分の価値に向かう。そんなアクセプタンスしてコミットメントするあり方が、不自然さへとズレた人を自然体へ戻す。

 

【参考・引用】

森山至貴(2023). 10代から知っておきたい女性を閉じこめる「ずるい言葉」WAVE出版

ラス・ハリス(2024)・武藤崇・嶋大樹・坂野朝子(監訳)・武藤崇・嶋大樹・川島寛子(訳) よくわかるACTー明日から使えるACT入門ー<改訂第2版> 星和書店

 

 

俺たちにとってどうでもいい女の服

 ウィメンズの服に機能性より装飾性が偏っているかもしれない。そして、実際にそういうことが多くある。自分はレディースのボトムスをよく買うけれど、ポケットがなかったり縫いつけられたりしていることが多いなあと思う(しつけ糸ならまだしも、全然取れない)。

 でも、それを話題にする人よりしない人のほうが、当然多い。というか、ジェンダー化うんぬんに限らず、ひいては理不尽についてに限らず、どんな物事もそれをそのとき話題にしている人数よりしていない人数の方がもちろん多い。今パンの話をしてる人数の方がパンの話をしてない人の多いに決まっている。なのに、多くの人がその話をしているかどうかをまず問題にしてくる。

 そもそも大人数は困ってないけど理不尽なことがあるという話だから、多くの人は気にしてないし、別にそれで助からないし、助かったとしてもそれは副次的な効果だ。そりゃそうだ。少数の人しか問題にしていないすごく重要なことが、世の中いくらでもあるのだ(富永、2019)。にもかかわらず、俺の世界以外の話、あるいは俺が楽でいるため以外の話を誰かからされると、「多くの人はいいと思ってんだから黙ってろよ」「それで何も変わんねえんだよ、俺は40歳だからわかるんだよ」「それで誰も喜ばねえよ」「なら社長に、総理に言いに行けよ」「お前の存在で喜んでる人がいるか訊いてやるよ」などとえんえんと怒鳴る。あるいは、理不尽さについて一瞬でも話されると、その部分だけ、本当に耳が閉じる機能があるみたいに無視する。

 そんなコミュニケーションが横溢して、くらしはできあがっている。「オレルールと異なるなら一言も発するな」という暴れ馬は、暴れ馬以外が困っててもそのままでいい。だから、「オレ的に意味ないから黙れ」以外の能力を身につけたいと思う。「オレ的に意味ないけど問題視するキャパシティ」あるいは、ただ黙っていられる大人しさ。

 

【引用・参考】

富永京子(2019). みんなの「わがまま」入門 左右社

2人の動悸と呼吸をスローに

 1.目を閉じないで

 会話で相手がわあわあなっているときは、自分に原因がある。因果応報は決して他人に向ける言葉ではない。自分にそう思う(それに、原因と非は似ているようで全然違うもの)。

 たとえばすごく卑近な例では、レジでなんとなく会話にならないとき。どんどん会話がすれ違う。相手はハイテンションにいろんなことを言ってくれる。私が何か言おうとすると遮ってしまうほど、一生懸命話している。ここで私もわあわあすると、会話が「わあわあわあわあ」して、加速度的に会話がクラッシュしてしまう。「少し待ってください」「まだ話している途中です」といったことを言って、2人の動悸と呼吸をゆっくりにしないといけない。意識的な呼吸は、後悔する言葉を未然に防いで、取り返しのつかない決定的瞬間を迎える前に、あなたを踏みとどまらせてくれる(ハン、2017)。

 とはいえ、怒りは相手のものであり、相手の怒りを自分のせいだと受け取ったり「怒ることはないだろう」と思って仕返ししたくなったりして他人の怒りを自分に伝染させては、意味のない攻防や消耗的なやりとりが始まることになる(平木、2021)。相手のせいとかではない。相性のせいでもない。ただ静かに協力をしていく。

 話を聴くとき相手は、非難や間違った思い込みを口にするかもしれないが、翻弄されて憤ってしまえば、深く耳を傾けるチャンスを失ってしまう(ハン、2017)。

 

 2.リズムよりも

 電話して電波が悪くて、ときどき聞こえないまま、聞き返しつつ話す。あるいは、いったん電話を切りつつ、また掛けてまた話す。リズムに乗って話すのは、物理的にできなくなる。

 食事中に話してて、ふいにトイレに行く。どんな話を相手がしてても、どんなに盛り上がってる最中でも、トイレには行きたくなる。関係ない。話が中断される。言葉がブチッと切れる。会話が宙に浮く。たまたまそのときの最後の言葉や発話やテンションが、ふわふわと行き場を失う。その後に言おうと思っていたこともいったん打ち止めになる。つんのめる。リズムに乗って話してたのに。そんな瞬間こそ美しい。

 

3.出てきてなかったものが幸運にも出てくる

 こういうランダムな中断や、あるいは人為的な「理解も解釈も共感もせず、大した意味をもっていない部分に注目する」というなるべくランダムな返事をされたとき、何か重要な言葉が出てくるかもしれない。意味を持たせたかったものが無意味化される、あるいは、無意味なものが意味ありげになる。発する文字数が少なく、なんの解釈もしてくれない聞き手。「ほえー」「んんん」ばかり。あるいは、どうでもいいところをおうむ返しする。

 理解も共感も解釈も反論もされずじまいになる。そうしてポツンとしたとき、何気なく言っていたことに向き合うことになる。とってもどうでもいいことやずっとなんだか分からないものが、その人のなかで別の意味をもつ可能性が出てくる。それで、思いもよらなかった新しいことを次に言うハメになる。

 そんなリズムの妨げのつまらなさが教えてくれること。元気とかより、少しだけ明るく素直にいたいということ。静かになってじっと聴き、体に任せて語り直すこと。

 

<引用・参考>

木典子(2021). 三訂版アサーション・トレーニングーさわやかな<自己表現>のためにー 日精研

片岡一竹(2023). ゼロから始めるジャック・ラカンー疾風怒濤精神分析入門ー ちくま文庫

ティク・ナット・ハン(2017)・シスター・チャイ・ニェム/西田佳奈子(訳). 愛するーティク・ナット・ハンの本物の愛を育むレッスンー 河出書房新社