障害者なんかじゃないから大丈夫だよ!

1.ロックンロール

 8歳のとき、ブルーハーツを聴いてた。悩んでたし、ベタに「私のために存在してるバンドだあ!」と素朴な感慨に耽って力をもらっていた。8歳という若さもあって、初期の「やさしさパンク」に打ち震えてた。
 「終わらない歌」をよく聴いてた。「キチガイ扱いされた日々!」というフレーズが、キメの前に入る。当時は大好きで、暴力や偏見やからかいから私を放ってくれるように感じてた。でも、このフレーズは、彼自身の歌詞を用いれば「弱いものが夕暮れさらに弱い者を叩」いてる歌詞であり、なんて狡猾なんだろうと思う。人から除け者にされたり軽んじられたりしてきた/いる「僕や君や彼ら」「全てのクズども」が、「まるでキチガイみたいに扱われてきたんだ!」と叫ぶ。

 

2.否定

 この自己肯定の仕方は、「アスペって呼ぶなんてひどい!」という言葉と同じ構造にある。たとえば、「こんなこともわかんないの?アスペ?発達持ち?」「アスペ乙」といったフレーズに対して、「人をアスペ呼ばわりするなんて最低!」という発想の上で、「アスペなんかじゃない!ひどい!」と返す。そもそもそれがが悪口になっているということは非難しない。そのうえで、積極的に自分はそうではないと否定する。そのことによって、パフォーマティブにそれが悪口として今後も機能するようになる。こういうことは、「ホモ?」「ホモなんかじゃないです!ホモ扱いしないで!」という憤慨など、いろんなことで起こる。
 ユッキーナが「在日」だという流言をしつこくインターネットで広められたとき、ユッキーナはそれを否定しあぐねてた。さも在日であることが良くないみたいになることを気にかけてのことだった。

噂の言及を避けてきたことについて「『韓国人じゃないよ』って否定することが、韓国の人にメチャクチャ失礼」と説明した。

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 あるカテゴリーをスティグマ化して、それを悪口として向けられる。そういういじめに対して、そのスティグマ化自体を否定しつつ、悪口を拒否する。そのような抵抗の言葉を発しないとって思った。

 

 3.否認

 中学生のとき、他のクラスと合同の水泳。授業終わりで他クラスの彼が私の水着を引っ張り「わ!こいつチン毛生えてるぜ!キモ!」と大声で言われ、みんなも笑った。そして水着を遠くへ投げられ、「早晩自分だってそうなるのにどういうスタンスで笑ってるんだろう」「自分がそうなったらどういう気持ちになるんだろう」というすごく不思議な気持ちだけ抱いた。彼は自分の二次性徴を受け止められず自我が崩壊でもするんじゃないか、と。もちろん彼は、そんな認知的不協和を心地よく解消して(つまりこんな出来事すっかり忘れて)いるだろう。そして私だって、たくさんしてきた嘲笑を今この瞬間すっかり忘れているはず。

 人を笑うとき。とくに、自分もその延長線のもう一方の端っこにいて移行しうるのに(つまりスペクトラム状なのに)笑えるとき。そこにあるのは、「自分はそうはならない」という他者化による安心かもしれない。ひいては、その安心のため(いずれそうなることの否認のため)に笑うのかもしれない。高齢者を笑う人は早死するつもりなのだろうか。人を笑えば自縄自縛になる。白髪の人をからかったくせに自分も白髪になる。すると自縄自縛になりたくないから、忘れる。あるいは、突然理解を示す。果たしてそこに欺瞞がある。

 

4.そのうえで

 人を批判することも同様だと思う。今この瞬間の私が、一文字ずつそれを自ら示しているかもしれない。

 つまり、人は誰かを批判するとき、自分もその延長線の先(批判対象)のもう一方の端っこにいてそっちに移行しうるけれど(つまりスペクトラムの帯の上で)批判している。でも往々にして、「自分はそうはならない」という他者化をして安心していたり、その安心のため(いずれそうなることの否認のため)に批判したりしてしまう。すると、自分も批判対象に該当したとき、過去の批判を忘れたり、批判対象に突然理解を示したりして、結局自分も易きに流れる。

 そのような認知的不協和の解消をするのではなく、行動の方を発言になるべく沿わせて自分や環境をより良くしていく、というほうを選ぶのが社会性だろう。きちんと自縄自縛するために、批判をする。あるいは批判をしたからなるべく筋を通す。

 「ハラスメントとか言うけど君だってしてるかもしれないよ?どう?これってそうじゃない?」。めちゃくちゃ大前提だよ店長。それはみんなでハラスメントを肯定するための、頑なに対応を一切せずに二次加害をするための、口封じの言葉じゃない。みんなで変わるためによく言われる言葉だ。正反対のひどい悪用を得意げな顔でしないで、素朴な上長よ。いま世の中って、その発想に依拠するからこそ対策・対応・反省をするというふうになっているんだ。週7で飲みに行きガールズバーに通って仕事中に客にガールズバーの場所を教えたり、店の前の客引き女性の見た目をみんなで点数つけたり、仕事中にふざけて「女装」をしてその写真を店中に貼ったり、みんなで無賃で出勤したりしてる場合じゃない。いま世の中って、だからこそみんなで変わるのやめるんじゃなくて、だからこそみんなで変わろうってなってるんだ。飲み会へセクハラ社員と連れ立ってお互いの性器をからかったり髪の毛を陰毛みたいだと言ったりしてる間に、毎日そういうニュースがやってる。避けようがないほどに。「ハラスメントとか言うけど歩み寄りだと思うけどなあ」と言ってる場合じゃないんだよ、店長。

 他者は他者性と同一性の複合体だから、他者化しようとしても無理が出てくる。無理が出たときの自己批判をみんなで避けるために批判をやめようとする。そんなふうにするより、みんなで自己批判をするために、批判をしてく。そうしたら、女性への客体化と酒で気晴らしなんかしなくても、幸せになれる。