ノーモア、アイフォーミー&違和感

1.裏(内部や向こう側)が現れる

 高校の定期的な学年集会では、先生が持ち回りでちょっとした話をしていた。ある回の先生。「みんな汗拭きシートをよく使うけど、臭うのが人間なんだから、そんなにしなくてもいいじゃないか。毛も生えるし臭うのが人間なんだ」。印象と光景と話の旨だけ覚えてる。「急に何を?」というムードだった(私がそういう気分になったのを投影してるだけかも)。よく、中学校あるあるとか高校あるあるで、「体育後の教室めっちゃシーブリーズの匂い」的なのがある。当事者が振り返ってクスっとするんだから、奇異に映ったろうと思う。そんなにお互いに気にし合う/気にさせ合うならみんなでやめていいんだよ、という旨だったのかもしれない。人には内部(表面には見えていないもの)がある。臓器や血管や食べた物や骨や心/脳とか。そんな内部が非物質的に外在化するものが臭いだ。唾液や精液や排泄物や血・汗・涙なら物質的に外在化するけど、そういうのとも違う。

 昔、祖父が大腸癌で開腹手術をした。術後すぐの彼が病床で大きな咳払いをした。すると、病室で内臓が縫い口から出てきた。院内は騒動だった。そばにいたのが見習い医師だったので、わけがわからず対応が遅れた。こんなケース。内部があまりに不意に外在化する。

 また、「机の上に教科書があるけど、閉じている時は文字がないのかもしれない。」「隣の兄の部屋が今ある証拠はないな」。そういうことを小学生か中学生くらいのとき、しばしば考えてた。それで確かめるためにページや扉を開く。文字も部屋もある。ゆーっくり開く。やっぱりある。内部や向こう側ー裏側ーが見えていないと不安で確かめたくなる。

 非物質的な外在化や、思いもよらなかった外在化。そうしたかたちで裏側が不意に外在化すると、他者はギョッとする。「何これ?」となる。笑う。戸惑う。かといって、内部や向こう側ー裏側ーがないかのように振る舞っていたり存在していたりするものに対しては、欺瞞性と不安感を抱いてしまう。「気取っている」「おすまし」「スノッブ」。とはいえ、裏側を過度に露出しているものには嫌悪感を抱くだろう。「露悪的」「ひどい」「醜い」。

 

2.嫌いとヘイト

 裏側(内部や向こう側)。表面や「ここ」にない(見えてない)もの。それが「閉じられた本の中の文字」などではなく他人におけるそれである場合。すなわち他者性。裏側ー他人の場合は他者性ーが、全く見えないでもなくとても見えているでもなく、垣間見えていると人は安心するのかもしれない。他者性が全く見えないお上品なものでなく、あまりに露出している下品なものでもなく、非物質的・不意に露出するでもなく、垣間見えてくれていること。そんな彼岸のチラ見えが、受け手が感じる欺瞞性と嫌悪感と、それらに伴う不安感を減らす。それらを感じた人は、ときに戸惑い、笑う。安心する。

 でも、他者性がどう現れているか(チラ見えかどうか)とは別に、他者性を受け止められるかというその人の人柄もあるだろう。くさいという他者性。外国人であるという他者性。太っているという他者性。それらに自らをただ曝露できない。ジャッジし、笑い、避ける。他者性がさまざまな表れ方をしたとき、そういう態度をとってしまう。受け取る側に完全に非がある。「他者には他者性があり、それがいろいろな仕方で現れてくる」ということと、「それに対して嫌悪感を抱き、それをジャッジし、笑い、避けてしまう」ということは異なる。「他者性=嫌悪の対象」ではなく、原因(要因)と結果(非)であり、そして、前者は後者の免罪符ではない。X(独立変数/刺激)とY(従属変数/反応)の間には、その人の心という要因(調整変数/媒介変数)がある。要するに、差別心だ。他者の差別心という他者性に曝露して、私は嫌悪感を抱く。この各嫌悪感は質的に異なるだろう。

 特定の他者性に曝露した他者が、それをジャッジし、戸惑い、笑い、避けるというかたちで、嫌悪する。そんな他者の他者性を私は嫌悪する。ジャッジしかね、戸惑うことも不可能で、笑えず、避けられない。ヘイトと、ヘイトを嫌うことは、異なる。「人にバカって言っちゃいけません」「先生も今バカって言ったからバカだ」「そう言っている君もバカだ。あ、僕もバカだ」。こんなのギャグ漫画の一コマだ。「何がロックとかロックじゃないとか、そういうことを言うのがロックじゃないんだ」「自分がそんなこと言っててロックじゃなくて草」。

 

3.分類から物語へ

 人を差別する振る舞いを打破/唾棄するために、そして、ヘイトと嫌悪(差別と差別に対する嫌悪)とを峻別するために、以下のようなことが大切ではないかと思う。

 近年、自己肯定とかセルフコンパッションとかアイラブミーとかセルフラブといった言葉が取り沙汰される。それらは本来、自己本位(アイフォーミー)に無邪気に人様を面白がるための免罪符ではない。むしろ、そうしたナルシシズムとは間逆なあり方の標榜だ。それはたとえば、よくセルフコンパッションの学問書やワークブックにこのような文言があることからわかる。「自己批判しないと自己中心的になってしまわないか不安に感じられる方もいますが、自分を思いやることで他者を思いやれるのです。共通の人間性、セルフカインドネス、マインドフルネスによって」というエクスキューズ。つまり、素朴に楽しく生きて人を不遜にまなざしてコミュニケーションするような自己中心性に抗う、人や社会のための自己肯定。それを本来表している。大事な人のために、もっと落ち着いて。