セルフケアしてもしなくても、セルフラブしてもしなくても

 1.神経質がえし

 車でくるりのベストを流していた。「男の子と女の子」という曲が始まる。同乗者が摂食障害で辛いというのを私が気にして、「好きだという気持ちだけで 何も食べなくていいくらい愛しい顔を見せてくれよ」という部分で慌てて会話を始めた私。

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 でも、そんなふうに隣り合って2人で神経質になっても、お互いにダメージを負うだけ。相手の神経質に神経質で応じると、関係性は持続されなくなる。激化して破綻する。だから、構造化したペースでお互いをなだめる。安定性とスパン。慢性的な疼痛やパーソナリティの問題や精神疾患は、「治らなくても楽しい」って感じでいるのが実は逆にいい。

 翌日の駐車場。私に「ボディポジティブなんて甘えだよ。あの人たちキラキラしてるけど、私あんなふうには無理だよ」とおもむろに泣きながら言った。何を思って何を言えばいいのか分からなかった。それに、だいいちとにかく黙ることだから。

 

2.きっと大丈夫

 母親が突然夜中に氷を舐め続けるようになったり、祖母が突然笑いだして飛び跳ねるようになったり、ベッドで彼女のすごい量のアームカットを見て泣いたり、元カノが幻覚見え始めたりしてきた。好きな人たちがいつかどうにかなることが、いつも恐い。

 幼いころ、「子どもはなぜいないいないばあで喜ぶのか」というくだりを、評論文で読んだ。これが未だに印象的。子供は、目の前から養育者の姿がいったん見えなくなると、世界から消えてしまったんだと思って絶望的になる。だから、「ばあ」と再会すると、もう本当に嬉しくて破顔する。そんなゲーム。いったんを永遠だと感じて号泣しかけて、その情動が破顔へと急旋回する。大変だ。

 「大丈夫、いなくなってないよ」「大丈夫、いなくならないよ」。そんな価値判断を超えたまなざしで、ただ愛らしくお互いをなだめる。そんな関係性が慈愛なのかもって思う。相手の神経質で不安定で気難しい世界観に入り込んだり触れたりして行き詰まったら、愛に旋回して静かに安定的に関わること。知識もディスも説教も本当にいらない。

 

3.元気ないときは元気なさげ〜いつかは弱い人たちの支えに〜

 職場で頭痛持ちか訊かれた。それで答えれば、「みんな一緒だよ俺も頭痛いんだよ」。数週間後の彼は、「俺もう頭痛いんだよね、ちょっと何もできないからどっか行っててくんない?」。ボスの頭痛は私のそれと違う。人を動かす頭痛。数日後に私は早退する。指示の通り謝ってから帰る。翌日治らないまま行く。「謝れよ」と言われる。改めて謝って周る。しばらくして、発熱者が毎日発生した。合間の時間、誰かに向かって「〇〇さんのせいじゃねえかよ」と言い合う声。彼が復帰する。「お前のせいでみんな熱になったんだけど、どうしてくれる」という怒鳴りが売り場に聞こえる。彼は否定して、それでも言われ続け、それで謝った。みんな笑って休憩終わった。

 体調不良を病理化せずに厳罰化/嘲笑する価値観が、社会にあって、それを内面化した自分の中にもある。そんな価値観がかえってみんなを病弱にしていく。

 元気ないとき、その元気のなさにいっそう元気をなくすときがある。あるいは、不安なとき、不安に思っているという自分が大丈夫か不安になるときがある。そんなふうに、落ち込んでいる自分に落ち込んでしまうことはよくあるように思う。「憂うつになって疲れて休んでいる自分」に憂うつになって、横になってるのにいっそう疲れる。そして、そのことにも悩む。縦(メタ)に延々と疲れて私を失って、鼓舞だけ残る。最後には、その鼓舞にも疲れ果てて悲しい結末になる。溺れているときにバシャバシャして、もっと溺れたり沈んだりするみたいに。沼にハマっているときに慌ててバタバタして、もっと抜け出せなくなるみたいに。

 元気ないなら元気なくいないほうが、変な動きや虚勢が人ーそして自分ーを傷つける。病気じゃないなら休んではいけないという感覚が共有されていること自体が不自由であり、誰でも休みたいときはあるし、休みたいときには休めた方がいい(森山、2023)。つまり、疲れや不調や不安には、みんなで観念して身を預けること。その上で今の自分にとって価値のあることに関わっていく。身を預けて初めて、溺れてた体が泳いだり、埋まって足で歩けたりする。これがすなわち、アクセプタンス(オープンになってスペースを作り、私的体験を受け入れること:ハリス、2024)の有効さだ。

 アクセプタンスとは、私的体験を積極的に受け入れることであって、状況を受動的に受け入れることではない(ハリス、2024)。無理することでも諦めることでもないし、根性論と違う。私的体験やそれを体験してしまう自分を回避・排除するより受け入れて、価値に基づいて過ごすこと。不安感や憂うつや慢性痛などを受け止めて、抱えつつ価値に従うということ。それが休むことでも少し歩いてみることでも、コミットされた行為かどうか。

 まず、自分に対する弱さ嫌悪(ウィークネス・フォビア)を治すこと。弱さ嫌悪な自分もアクセプタンスしつつ。そして、虚勢と露悪を離れて自分なりに素敵であろうとすること。虚勢を張りがちでつい露悪的になる自分もアクセプタンスしつつ。

 こうして、自分や相手のアンビバレントな感情を知的に割り切ろうとするのではなく、矛盾する2つの感情に気づいたり、気持ちの流れ・変化についていったりする(平木、2021)ことで、弱さを抱えたり休んだりしつつ自分の大事なものへ向かえる。それが、誰かのためになる。そして、自分のためになる。

 受け止められないということも含めて受け止めて、自分の価値に向かう。そんなアクセプタンスしてコミットメントするあり方が、不自然さへとズレた人を自然体へ戻す。

 

【参考・引用】

森山至貴(2023). 10代から知っておきたい女性を閉じこめる「ずるい言葉」WAVE出版

ラス・ハリス(2024)・武藤崇・嶋大樹・坂野朝子(監訳)・武藤崇・嶋大樹・川島寛子(訳) よくわかるACTー明日から使えるACT入門ー<改訂第2版> 星和書店