感覚という知識

1.がまんできない

 入社してすぐのある日、中高年の男性社員同士が休憩室で大声で話していた。お客様を名指しして、「うーわ〇〇また来やがった」「ホモらしいっすよね」「2丁目言ってるクチなんだ」「うーわ買うのはいいけど長くいないでくれよ」「迷惑ですよね」と大声で笑い合う。

 また、私の教育担当の彼女は、入社直後から私を逐一からかう。あまつさえ、歩き方が内股だと「ねえオカマなの???ほんと無理なんだけど!「オネエみたい!キモいんだけど!」と心底不快そうに顔をしかめ、判子が斜めになって思わず声が出ただけで「ねえほんとナヨナヨしないで気持ち悪い!オカマ!」と何度も何度も言う。仕事中、フロアで、大声で。男性が女性のようなふるまいをしていることを「ゲイ」に結び付けるステレオタイプ化(松岡、2021)。

 そして、ある社員は、異性装に見える服装をしている従業員の性別を陰でうわさし、いさめても「だって気になるじゃん」「面白くないの?」と言ってやめられない。(事業者に防止措置が義務化されている)アウティングの中毒になっている。会社の本部に、その人の名前を半分赤で半分青でわざわざ表記している資料さえあった。そのことを嬉々として伝えてきた。

 一橋大学アウティング事件では、「おれもうおまえがゲイであることを隠しておくのがムリだ。ごめんA」というメッセージが、混乱の結果いきなりグループLINEに送信された(松岡、2021)。

 いったい、なにをそんなに駆り立てられるのだろう。

 

2.感性をいったん鎮める

 ジェンダーセクシュアリティに関する規範が社会の制度や意識に根を張り、「あたりまえ」「ふつう」と呼ばれる枠から外れるや否や、差別・偏見によるさまざまな不利益を被りかねない(松岡、2021)。ジェンダーは、公正さの感覚を歪ませて性支配の仕掛けを構築する精緻な仕掛けである(江原、2021)。偏りをデフォルトだと感じさせ、それを均そうとすることを不平等だと人に感じさせるようになる。感覚はつねにすでに歪みへと構築されている。だから、それを均そうとすることこそが却ってニュートラルであり、逆差別とやらでは全くない。

 ノーマスクの人間や副流煙を発する人は経験的に多くがおじさんだとよく感じた。「自分がおじさんだからしてもいい」という非意識的な態度の記号と化した口元。社会的カテゴリーの優位性に知らず知らずのうちにあぐらを掻くスタンスの自己開示。「普通にしているだけ」だと偏っているから、意識して積極的に是正して初めて公正へと近づく。

 それは卑近な例では、上司や先輩や年上“だからって”タメ口であること、部下や後輩や年下“なのに”タメ口であることの非対称性が象徴的。素朴な前者かラディカルな後者か。つまり、社会的なゲタに平気で則るか、それを均してフェアか。デフォルトにゲタがあるんだから、自然体ではなく、積極的に意識し合おうとして初めて対等に近づく。しかしながら、くだんの会社では、挨拶なんて誰もしてくれないし私からしても全く誰もろくに返さない。敬語なんて誰も使ってこないし、呼び捨てかお前呼ばわり。よくて君付け。それでいて以下のような教育をする。

 「なんだかうずうずしていじめをしてしまう」というふうに感性に依拠して内輪で他者を愚弄する前に、その感性を積極的に鎮める必要がある。「わあ内集団成員と違う人だ!」とはしゃぐけれど、デフォルトだと感じているものはつねにすでに瞬間ごとに歪み続けている。

 

 

【参考・引用】

江原由美子(2021). ジェンダー秩序【新装版】 勁草書房

松岡宗嗣(2021). あいつゲイだってーアウティングはなぜ問題なのかー 柏書房