字ないし線ないし絵

 1.ミロ、1981年

 ジョアン・ミロの1981年の一連の版画作品を東広島市立美術館のコレクション展で観た。前衛書道の影響下にあるという黒い線が印象的だった。

https://www.city.higashihiroshima.lg.jp/material/files/group/73/05010040.pdf

 ポスターでフィーチャーされてる「あらもの屋」をはじめとして、黒くて太い大きな線が印象的な作品群だった。同じ黒の線でも、直接的にモチーフを描いてるもの、単に線としての線のもの、抽象的な何かを表しているものとが入り乱れているように感じられた。作品のステートメントで「前衛書道」というものを、そしてその影響下にあるということを知った。

 

2.区別なんて恣意的

 本を読んで疲れてくると「ずっと色んな黒いシミが続いてるだけだなあ」とつい思う。それから、漢字ドリルに漢字を延々と書いてると、いわゆるゲシュタルト崩壊してくる。ふだん人は、「黒い線の特定のパターンが文字になっていて絵ではない」というふうに了解をしている。でもこういう感覚になるとき、その了解にはどんな含意があるのだろうと不思議な感慨を抱く。線と文字のあいだののダイナミズムは、得体が知れなくて、重要なものだと思う。

 私はある日宿題をしていて癇癪を起こした。文章を途中まで書いて最後の文字の「はらい」をそのままギザギザと紙じゅうに広げたり、漢字の四角い部分を塗りつぶして、そのままストレスフルな筆圧で紙を突き破ったり。このとき、文字が途中から、線それ自体になって、文字ではない何かになった(勉強がイヤすぎて)。

 文字と線と絵の違いは、恣意的だし流動的だと思った。

 

3.シュッとした、てんやわんや

 2019年のあいちトリエンナーレで、文谷有佳里さんの作品をみた。直線や曲線が自由連想的に並ぶ。不意に、立体的に何かに見えたり、建物や乗り物っぽく見えたり文字に見えたりする。おぼろげに意味性の濃淡が変幻する。それが面白いと思った。つまり、無数の線によってわれわれは、意味と無意味を往還しながら観る事になる。でもそこに、たとえばジャクソン・ポロックみたいな混沌とした表象はない。そこもまた魅力的だと思った。

aichitriennale2010-2019.jp

 

yukaribunya.com

 それが意味を持つものなのか持たないものなのか、どれくらい意味を持つものなのか、どういう意味を持つものなのか。そういう複雑かつ半現実的な空間を、混沌とした筆跡や厚塗りではなく表現する。ウェットなものを、その気配は感じさせつつもドライに表す。そんなものこそすごくポップだと思った。