花(コンプレックス)

1.お出かけ

 母との旅行帰り。イルカショーが本当に可愛かった。それから、小さいプリンもおいしかった。あと、一緒にやったエアホッケーも楽しかった。すっかりのぼせて、楽しい気持ちで過ごしてしまっていた。帰宅後、彼女は私に教えた。「お前らだけ楽しんでんじゃねえよ」という電話がお父さんからから来てたんだよ。不覚。

 ゆっくり朝ごはんを食べれば彼は机を殴って骨折した。私が怪我で泣けば彼は暴れて壁に穴が開いた。母は壁の穴を毎日携帯で撮影し、私に見せるようになった。私は家族集団の力動を必死に調整し続けた。油断して楽しむのは危険だということ、それから、事実は次々にどんでん返しすること。この2つを学べた7歳の一年だった。朝、お腹が痛くなれば母親に足を引きずられたり壁の数cmのヘリを掴む指を一本ずつ剥がされたりしながら通い、「7回も遅刻早退だって」と忠告を受けた。

 どこかに行くってなんだろ、人といるってなんだろ。私は母を非難し始めた。抵抗すると暴れそうで怖い本丸をさけて。
 お父さんが暴れてるからまあくん止めて。それが8歳になった私の仕事だった。4歳上の中学生の兄は免除。部屋で漫画を読んでいる。毎回上手くいかなかった。椅子なんかで阻んでも当然どかす。相手は俗に言う大人。せっかくばあばが洗って綺麗にしまったスプーンやフォークが散る。冷蔵庫の仕切りが割れる。作った人、お店の人たち、買った時の笑顔を思い浮かべて切ない。
 「あんたの息子がいま暴れてて困ってるんだけど」と彼の母に電話した。「なに?かっちゃんが暴れるわけないじゃん」。怒られた。親ってなんだろう。いつも言われるようにまあくんが止めて、少年院に入ろうとふと思った。せっかく刃物を向けたのに、ばあば(同居してる方の母方の祖母)が取り乱した。私は、泣きながら奇声を上げて、それで少しさっぱりして、お母さんとテレビを見てちょっと過ごした。遅くまでテレビを観て、おおみそかみたいだねと、彼女にそう言った。いつもは嫌そうな顔をして見てくる私の大きな絵を、そのときは褒めてくれた。何冊目のノートに絵を描いてもすぐゴミ箱に捨てられてきたのに。一生絵なんて描かないと決めた。

 優しさってなんだろう、威張りや逃げからほど遠く生きるってどうやればいいんだろう、ズルさや決めつけってやだな。そういうことを思い始めて8歳は終わりに近づいた。一年くらい、家で叫ぶ癖が出て、母にからかわれた。それから、汚言症とチックが続いた。「最低最悪ぶっ殺してやる」というフレーズを歩きながら延々と言っていた。「死にたい」とどうしても言いたくて母のいる部屋で言ったら怒鳴られた。死ぬのが病的に怖くなった(死という存在/現象自体が不気味で仕方ない)。ちょうど自我体験の時期だったのもあって、「人ってなんのために生きるんだろう」って考えた。なるべく人として向上して、死ぬときに「より上の自分」であるために生きていくんだ、という言葉にまとまった。今も。
 まだ私は、「絶対に許さない」と「どうか許してください」で生きてる。9歳のころから15年くらいずっと心がもやもやする。それは加速度的に深まってる。強くなっている、というよりは。
 「向上」は、じいじが教えてくれた言葉だった。遠洋漁業を世界中でしていた元船長の彼の軽トラで漁港に行った帰りに、自販機のブドウジュース「おなか向上委員会」を指さして意味を訊いた。祖母を怒鳴りつけて借金を数千万円作り始める数年前のじいじに教わった知識だった(私達はその策動を9年間知らなかった)。母親から借金問題「まさとなんとかして」と何度も乞われ続けた私は、大学院休学中に療養のためにふるさとに帰省した折に彼を祖母に土下座させた。額を畳に着けるよう何度も絶叫しても、「まあくんおじいさは腰が悪いからつかないだよ」とのことだった。私の仕事ってなんなんだろうと思った。借金のことを糺されて逆上した祖父は父に包丁を向けた。と母親から聞かされた。あの人は生涯で通算2回刃を向けられた。8歳の息子と79歳の義父から。


2.老化
 高校生で、はたと気づいた。母親は責める対象じゃなかった。父親がああだから母がこうだったのに、父親は暴れるがために責められないから、相手が女だから母を責めていた。私は威張ってた。「ごめんね母さんは悪くなかった」という素朴な話ではなく、社会や構造という視座でものをみることだと思った。あと、反暴力を暴力でしないことだと思った。

 すると、優しさってなんだろう、威張りや逃げからほど遠く生きるってどうやればいいんだろう、ズルさや決めつけってやだな。そういうことを私に対して思い始めた。関心がフェミニズムもとい男性批判に行った。
 3か所目のこの街でもいろいろなことがあった。悲しい場面は悲しいから本当に嫌だと、頻繁に思うようになった。なるべく誰も悲しないためにこそ、批判や抵抗はあるのだと思った。だから、批判や抵抗のプロセスにおいても、なるべく誰も悲しまないことだと思った。最も効果的に"本丸"と闘わないとと思った。かわいい気持ちが蔑ろにされる悲しい場
面は根絶されないといけない。論文を書いて、フェミニズムをしに別の街に出ることだと思った。

 

4.冬

 学者という立場においてフェミニズムすることには、経験的な知識以上とともに学問的知見に依拠できる、という意義があるのだと思っていた。文脈を踏まえてメッセージを提示できるという、学問的視座のアウトリーチという意義があるのだと思っていた。アカデミズムと経験とが混淆すること特有の効果。

 学者が社会的なテーマを扱う(学間でプロテストする)には、「アカデミアの規範性に則って生きる論文生産者」というアイデンティティを構築しないよう気をつけながら、アカデミックに自分や誰かやあなたの「わたし」に触れることが肝要だと思う。なのに往々として、アカデミアという政治的空間の内集団成員として生きているしがらみ、アカデミアという場における「人間性を俎上に載せない」規範性。そういうものによって、社会にいる人の声を聴くことに及び腰になる。
 アカデミアにおいては人間性の交換は些末でウブで青臭いものにされがちだと、思ってしまった。「理不尽さへの抵抗を個々人の声で行う」「権力行使にセンシティブになる」といった営為は、アカデミアの規範に逸脱することに伴うサンクションを避ける生き方を内面化したような人が発する空理空論ではできない。理不尽さへの抵抗を避けながら理不尽さを学問するような磁場(ストリートから離れた机の上)で原則ばかり述べる長広舌は、権力に関する味覚が衰えている舌だ。そのような人が現実の世界をいっちょかみして味わって行ういいご身分なグルメリポートは味を伝える機能性とシリアスさに乏しい。家父長的なアカデミアへの順応とリアリティがトレードオフになっているように見えてしまった。学者が権力に触れたときに、生産的に業績を積むためにそれに与するのではなく、権力の在り方を批評的にみるふるまいにフィードバックさせられはしないのか。生の出来事(ローデータなどではなく)に対する感度や経験の多寡は、その人の説得力を示す。
 アカデミアにおいて人間性の発露とそれに基づくコミュニケーション(人間性の交換)は、生産性がないものでありそれに拘泥するのは使えない者とされるだろう。人として素敵であろうとすることは高コストであり、アカデミアの外に対してはハイリターンで、アカデミアに対してはローリターンであろう。そうしたことに拘泥する者が、アカデミアにおいても「変わった人」なのだ。これが家父長的な理不尽さの再生産でなくて何であろうか。
 アカデミアに行く/いる人は、既存の価値観や理不尽さへの抵抗や不快感をどうしても我慢できない天然であり、それをアカデミックに伝えたい者だと思っていた。特権と小理屈と勉強の得意さで適者生存した人が自分と他人を非人間化し合うコミュニティには、そうした意義よりスノビズムの方がはるかに多く満ちていると思えてならない。
 

5.場

 4歳の七夕祭り。途中までお母さんと手をつないでた筈が全然知らないおじさんだった。お母さんと祖母はすごく向こうにいた。しばらく知らないおじさんと手をつないでほんわか七夕の感想を話してた。不覚だった。心底びっくりした感覚がまだ残ってる。なんの知己でもない人と油断して手をつなぎつづけてた。
 高校入学。生徒会室の向こうで知らない人がずっと私を見る。5日それが続く。告白されて手をつなぐ。七夕祭り以来手をつなぐ。別にはぐれるわけでも足を怪我してるわけでもないのに手をつなぐ。気づいたら別れてた。