俺たちにとってどうでもいい女の服

 ウィメンズの服に機能性より装飾性が偏っているかもしれない。そして、実際にそういうことが多くある。自分はレディースのボトムスをよく買うけれど、ポケットがなかったり縫いつけられたりしていることが多いなあと思う(しつけ糸ならまだしも、全然取れない)。

 でも、それを話題にする人よりしない人のほうが、当然多い。というか、ジェンダー化うんぬんに限らず、ひいては理不尽についてに限らず、どんな物事もそれをそのとき話題にしている人数よりしていない人数の方がもちろん多い。今パンの話をしてる人数の方がパンの話をしてない人の多いに決まっている。なのに、多くの人がその話をしているかどうかをまず問題にしてくる。

 そもそも大人数は困ってないけど理不尽なことがあるという話だから、多くの人は気にしてないし、別にそれで助からないし、助かったとしてもそれは副次的な効果だ。そりゃそうだ。少数の人しか問題にしていないすごく重要なことが、世の中いくらでもあるのだ(富永、2019)。にもかかわらず、俺の世界以外の話、あるいは俺が楽でいるため以外の話を誰かからされると、「多くの人はいいと思ってんだから黙ってろよ」「それで何も変わんねえんだよ、俺は40歳だからわかるんだよ」「それで誰も喜ばねえよ」「なら社長に、総理に言いに行けよ」「お前の存在で喜んでる人がいるか訊いてやるよ」などとえんえんと怒鳴る。あるいは、理不尽さについて一瞬でも話されると、その部分だけ、本当に耳が閉じる機能があるみたいに無視する。

 そんなコミュニケーションが横溢して、くらしはできあがっている。「オレルールと異なるなら一言も発するな」という暴れ馬は、暴れ馬以外が困っててもそのままでいい。だから、「オレ的に意味ないから黙れ」以外の能力を身につけたいと思う。「オレ的に意味ないけど問題視するキャパシティ」あるいは、ただ黙っていられる大人しさ。

 

【引用・参考】

富永京子(2019). みんなの「わがまま」入門 左右社