名前かえせよ

 1.名前を自分で付けずにいられない

 タイ料理店「ピーマイ」に行った。カオパックンを頼めば、知らないサラダと知らないスープが前菜として運ばれてきた。知らない味が混ざった知らない味がした。「よかったらこれを掛けてください」と、知らないソースや粉が5種類来たので、米に掛けた。おいしい。壁には知らない「神さまみたいな何か」の絵がいくつか掛けられてた。一体あれらは全部なんというものだったんだろう。ただ美味しくて素敵な店だった。

piimai.com

 しばしば、名付け(定義づけにともなうラベリング)をしなければ次に進めなくなるというようなふるまいがある。名前がないなんてまずいことだ、というふうに。あるいは、名前があってこそスッキリするというふうに。

 例えば自分の生きづらさに際して。HSPは、生きづらさに名前がついて自分のモヤモヤに答えをくれるラベルとして受け入れやすくなっていると考えられる(飯村、2023)。名付けが腹落ちに、つながる。そうして自分をアイデンティファイできる。あるいはできてしまう。でもHSPブーム下では心理学論文や学術書は参照されず、主にHSPを自認する当事者や厳密には専門家ではない医師が執筆した自己啓発本が参照され、良くも悪くも何かを説明した気になれる言葉としてHSPが機能している(飯村、2023)。

 あるいは、他者の蔑視において。アパレル企業のフロア長が「直し場のクソババアどもがパートのくせにうるせえ。でも俺は大人(50代)だからうまくかわすんだぜ」と頻々に新入社員の私に言う。ある日の彼は、仕事中に「最近はなんでもかんでもハラスメントと言えば勝ちだから」「困っちゃいますね」と客前で嘆き合う。

 当該の彼女たちは、「あの人私たちのことをババアなんて言うから本当に嫌」「みんな私っちのことおばちゃんって言って君以外名前知らないのよ」とときおり私に言う。個人名(要するにその人らしさ)を、幼児退行しながら奪って、代わりに相手のラベルを設ければ、からかいへの道が整う。名付けで次へ移行する。相手の名前をラベルに変えてからかう。業務中にえんえんと「あのバイト応募の人多分障害者だよね」「店長ってホモみたいでさ」「お前オカマなの?」「あの女性社員、怪獣みたいな顔」。そんないじめに忙しくて報連相に手が付かない。

 

2.反名付けに対しても、名前を自分で付けずにいられない

 HSPブームで、ポップ化(誤用とともに拡散した)HSPという言葉で自分を生きやすさへと自分をカテゴライズする。でも、曖昧なラベルを自身に貼るだけでは、長期的な視点で生きづらさが大きな改善をし得ない(飯村、2023)。

 あるいは、他者をからかいと威張りだけで親しもうとする態度の集約としての、ラベル。上記のような、おじさんとおじいさんの間ぐらいに見える男性が自分を棚に上げ、年齢で女の群をジャッジする(長田、2019)ふるまい。そして、インターン中の内定者を延々と「ポチャ」とあだ名し続けるボディポジティブ企業社員のいじめ。それに対して、「でも悪気はないからね彼ら、俺はそんなこの会社が好きだし」という幼児退行。

 名付けへのとらわれは自己理解も他者理解もときに遠ざける。だからそういう小4のようないじめに対して、「言え」というから異を唱える。すると、「じゃあお前が俺に話しかけるのやめて、セクハラだあ!」「また愚痴ならいつでも聴きます♪」「ハラスメントって言いたいのかな、ハラスメントは歩み寄りだよ」「それは愛情表現だから”はい”って言っておけば良いんだよ」。勝手なラベリングされたという言葉に対して、内容を全く取り合わず、勝手なラベリングだけをえんえんする。サッカー中に「ハンドって何ですか?正確にはどこまでが手に該当するんですか?」と延々と訊き続けるプレイヤーがいたら試合は滞り、遅延行為に他ならない(三木、2023)。それがハンドだったら、あるいはハンドじゃなかったらなんなんだ。それにそもそもハンドだとも言っていないし、ハンドだと言っていたらなんなんだ。

 話の中身を話し始めずに、仕事中にからかいをやめられずに幼児化しながら老いさらばえる。加害者にも被害者にも、名前がなくなる。

 

【引用・参考】

飯村周平(2023). HSPブームの功罪を問う 岩波ブックレット

三木那由他(2023). 言葉の風景、哲学のレンズ 講談社

長田杏奈(2019). 美容は自尊心の筋トレ Pヴァイン