ミニマルアートによる徹底操作

 空から日本を見てみようって番組で、BGMがYMOのファイヤークラッカーだった。なんかピンと来て、そこからYMOにハマった。車で掛けたら「歌が始まらないけど飛ばす?」と親に言われた。全曲飛んだ。

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 インストではあってもヴァースとコーラスの繰り返しになってるから、わりとキャッチーだった。けれどしばらくして、そうではないインストの曲も世の中にあると知った。フロアライクなアシッドハウスや、逆に全く踊れないミニマル・ミュージックなど。後者はポップの対極に感じた。ビートもメロディもないし、BGMにもならない。私も全曲飛ばした。

 けど、ミニマルという言葉をふいに解釈し直した。祖母の車でミニマル・テクノを聴いてたとき、特にダンサブルでない繰り返しを聞きながら、そんなに繰り返されてるときの意味をふと考えた。「ミニマルって、要素の少なさではなく繰り返しの多さを言うだがや」。そして、「それは必ずしもダンスのためではないがね」と思った。30回フレーズが繰り返されているとき、全く同じフレーズのリピートでも、何回目の全く同じフレーズかということが違う。このことが意味するものはあまりに大きい。全く同じものの反復。ミニマルなもの(要素の少なさと反復の多さで基礎づけられるもの)は、同じものが繰り返されて、そのまま終わる。展開も順序性も、(物理的には)ない。スティーブ・ライヒやドナルド・ジャッドみたいに、要素の少ない全く同じものが何回も繰り返されているとき、そのフレーズやものは、なんのために何個もあるんだろうか。1個前のもののあとにある、ということのためだけにあるのだと思う。

 仏教に、空という概念がある。事物に不動の絶対的な状態/意味はない。あらゆるものはつねにすでに瞬間的に変化し続けている。ただ1つの静物でさえ、そう。1つの石。さっきまで浴びてなかった空気や風を経た石になっている。また、さっきまでとは異なる環境の中にある石、というものになっている。しかも、それを見る側のまなざしも同様に空。対象の流動性によっても、まなざしの流動性によっても、あらゆるものは捉えようがない。

 ゴールを措定していない反復は、そんな空を可視的に示す禅画のようなものだ。同じものが物理的に複数個あるという視認性によって、却って1つ1つの差異を内省させられる。その差異とは、畢竟、1つ前のものじゃないということだ。同じものの繰り返しだけど、1つ前を経ているもの/私、という違いがある。単数のものもそれ自体で空だが、「複数個を繰り返し提示する」という迂回によって却って空をわかりやすく示している。そんな禅画が、ミニマリズムだと思う。単一のものがもつ非固有性を示すための、複数個の固有性。

 ミニマリズムが示す空が意味するように、物事には本質(本体)はなくて、瞬間ごとに結末かつ始点。ただ、その力動が何らかの外的要因によって切断されるに過ぎない。だから、その無作為な切断をどう意味づけるのかという恣意的なまなざしだけが、むしろ静的なものだ。石も、フレーズやモチーフも、実は同じくらい動的。でも、それらをある瞬間とらえたときの語りは、反復強迫を示して固定されがちになる。対象も視線も動的でも、それらに対する語りが静物である。

 このことを示されたとき、人は語りを動的なものにしたくなるのかもしれない。反復を示すことによる差違の表現は、むしろ意味づけ・語りが最も静的である(反復されている)ことを人に伝え、意味づけや語りの変容を人に欲望させるのではないかと思う。前向きな徹底操作のための装置としてのミニマル。ゴールのない反復は、人のまなざしを変えたくさせてくれるかもしれない。