優しいね

 1.ギャグによる(マッチョな)生存

 中学の掃除時間。女子たちが掃除ロッカーから男子たちにホウキやチリトリを配る。ノリによる配役。不自然なふるまいが自然にあった。イデオロギーは空気として充満していて、そこで息を吸って吐く。掃除用具を出し入れするとき、ある1年の女子が男子たちからいつも「どけ」と指や声で指示され、切なげに動く。私がロッカーを使おうとしたとき、その子は「ごめんなさい!」と俊敏によけた。それ以来話すようになった。掃除ロッカーの前にいて邪魔だったのに優しくしてくれて好きになった、とのことだった(他人が苦手になってしまってた私は、彼女を見かけると逃げた)。私の美術の教科書とファイルにはクラス中の男子から女性器と男性器の絵と名称がマジックでところ狭しと書かれ、教室や剣道場の黒板にもそれらが書かれる。女性の理科教師はクラス中からからかわれて泣き、不良男子に阿って私たちをいじめた音楽教師の女性はいつも笑う。マチズモと、それに準拠したヒエラルキーが明確にあった。出身地は、町の特性として人が荒れていた。社会関係資本だとか文化資本だとかハビトゥスだとか、そういうのは本当にひどく存在する(社会学を習ってからルサンチマンを獲得した気がする)。

 

2.自然

 多くの問題は、結果の根拠化に帰着する。「◯◯はそういうもん」というふうに他人や自分の生を規定する態度には、社会文化的な営為の結果にすぎないものを生物学的な「そういうもん」と捉えて根拠にするという転倒があるだろう。人は本質的な感性で素朴に笑うわけではない。だから、その人がそのときでそれで笑えているかは、その場面の良し悪しの根拠になり得ない。本人が笑ってたところで、だからなんなんだ?

 この◯◯に性別を当てはめれば、それはすなわち、ジェンダーのセックス化/セックス視だ。「女はそういうもん」というふうに性を規定する態度には、社会文化的な営為の結果にすぎないもの(ジェンダー)を生物学的な「そういうもん」(セックス)と捉えて根拠にするという転倒がある。加害者が自らが小心者であるがために「自分の罪を軽くしたい」と願って「被害者は歓迎している」と思いたがるように(上野、2018)、もじもじしたマッチョさで結果を根拠にして、ジェンダーを「こういうもんだから」と再生産していく。感性を根拠にしないことを、常にすでに行って行かないといけないなと感じる

 

【参考・引用】

上野千鶴子(2018). 女ぎらいーニッポンのミソジニー 朝日文庫