客体化と社会心理学: 日常的なまなざしの影響

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 もともと卒業論文で、性暴力被害者への男性による二次加害(レイプ神話の肯定)をテーマにしていた。そのとき、男性が「自分が男性である」というアイデンティティが強いと、二次加害が強まる。というようなことを心理調査で調べたような覚えがある。そのときにホモソーシャルという概念を知ったように思う。そのあと関心は、そのような事件やそれにまつわる偏見以前の(つまりそうした事件や偏見につながるような)、日常的なまなざしー客体化(性的客体化、性的対象化、性的モノ化)ーに移った。もともと、決めつけやステレオタイプというものから社会心理学を志し始めたのもあって、そうした一方的なまなざしについての関心があるのだと思う。

 それで、修士論文は、「客体化をされた経験のメンタルヘルス(自分の身体への不満、抑うつ、不安感)への悪影響」に、自己客体化(自分で自分を客体化するという客体化)がどうかかわってるかというものにした。

 そのとき、非人間化という概念も扱った。中間発表会でたくさんの教授から異口同音に聞かれたことがある。「男性もこういうことされているのになんで女性に対する客体化を俎上に載せているのか」「なんでこんなことを研究する必要があるのか」「客体化と非人間化は同じ意味じゃないのか」というものだった。

 客体化(Objectification)はモノ化とも訳されるので、「モノ化=非人間化では」というふうに、語感的に思えるのだと思う。でも、客体化と非人間化は語感は似ているけれど、語義的には全然異なるものだと思う。客体化は「他者を性的な部位や機能へと還元(reduction)すること」、非人間化は、(ハズラムの概念化によれば)「他者を機械化や動物化すること」だ。なお、非人間化は、「他者を悪魔化や患者化すること」という、別の概念化もある。つまり、前者は「他者を性的な目で見ること」、後者は「機械化と動物化」。こう聞くと逆に、「全然関係ないじゃん」というふうにとらえられるかもしれない。でもそんなことはない。たとえば、男性は女性を客体化しているとき動物化(「自制心が欠けていて動物のようだ」)もしている、というように考えることができる。

 客体化と非人間化は、このように別物で、このように関連が考えられるものだと思う。

 

※非人間化については、「なぜ心を読みすぎるのか」という本で述べられています。「日本語の心理学の本」以外の本でならもっとほかの本もあるのかもしれないです。

※「性的な部位・機能を重視するという客体化が動物化と関連し、外見を重視するという客体化が機械化と関連する」という研究。この研究では、客体化をそのように2つにわけている。

Women as Animals, Women as Objects: Evidence for Two Forms of Objectification - Kasey Lynn Morris, Jamie Goldenberg, Patrick Boyd, 2018

 

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 新宿駅蓮舫候補の演説があった。野田元総理が話し始めた。「蓮舫さんの隣で話すのは恥ずかしいんです!横に並ぶと顔が大きいのが丸わかりですから!」が一言目だった。これでウケるタイプの観衆はここには少ないと思った。私は勝手に、セクハラだし女性蔑視だと思った。

 大学院の社会心理学ゼミで、性的客体化をテーマに修士論文を書いてた。論文紹介をするゼミで、あるゼミ生が「まさとさんが興味もつかなと思ってレジメに含んでおきました!」って言ってくれた。それは、「レズビアンへの嫌悪感はゲイに対するそれより少なかったが、それはレズビアンを性的客体化しているからだと考えられる」というくだりだった。

 それから少しして、称賛的客体化complementary objectificationという概念を知った(和訳は私が勝手にしたもので定訳はない)。褒め言葉のようなかたちをして、相手を性的モノ化(性的な機能や部位へと還元reductionする)。そんなことを指していた。「褒めてるからいいじゃん!」ってあのセクハラ上司たちは僕たちに言ったけれど、なんのことはない。褒めるというセクハラだ。